第五十三章  抱擁の中で

演奏会を楽しんでいるハンナとライラに挟まれたモハマッドは、片時も叔父のカスティーヨとマンスールから目は離すことはしなかった。
一方、モハマッドに監視されていることを承知のマンスールは、トイレでモハマッドに言われたことをカスティーヨに何とか伝えようと思うのだが、席が離れてどうすることもできない。
モハマッドより前列に座っていたマンスールはうしろを振りかえるわけにもいかず、しばらくはおとなしく演奏に聞き入っていた。
マンスールの様子を窺っていたモハマッドの直感が働いた。
「ハンナ、俺はもう行くよ。ホテルヨーロッパに泊まるのかい?それともお姉さんの家かい?」
ハンナの耳もとに顔を寄せてモハマッドが言った。
「あとでホテルに行くわ・・・」
小さな声でハンナがモハマッドの耳もとで囁いた。
その時、甘い香水の匂いが、モハマッドの首筋を刺激して、集中していたマンスールへの神経が麻痺された。
それは、ほんの数秒のことだったが、マンスールへ再び向けられた神経が空を切った。
さきほどまで席に座っていたマンスールの姿が消えていた。
カスティーヨの方に視線を変えると、彼は座っている。
咄嗟にモハマッドも自分の席を立った。
ハンナにウィンクしながら、出口のドアまで小走りで駆け抜けた彼は、必死でマンスールの姿を探したが、待ち合いフロアーには誰ひとりいなかった。
オペラハウスの外に出たモハマッドの研ぎ澄まされた神経は、ホテルヨーロッパに向けられていた。
「お帰りなさい。もうコンサートは終わったのですか?」
フロントの女性がモハマッドの姿を見て訊いてきた。
チェックインした時の女性とは違う。
『どうして、俺のことを知っているんだ!?』
心の中で首をひねっていたモハマッドがそのフロントの女性に訊いてみた。
「誰か、わたしの前に入って来なかったかい?」
女性は微笑ながら答えた。
「いいえ、誰も」
モハマッドも微笑ながら応じた。
「ああ、そうかい?部屋にコーヒー一杯頼みたいんだが・・・」
部屋に戻ってシャワー室をチェックしていたら、ドアの音がした。
「コンコン」「コーヒーをお持ちしましたが・・・」
さきほどのフロントの女性の声だ。
ドアを開けると、「コーヒーメーカーをお持ちしましたから、部屋の中でコーヒーを存分にどうぞ」と言って、その女性は部屋の中に入って来た。
バルコニーの傍にあるテーブルに、持ってきたコーヒーサイフォンを置いたその女性は、「ではごゆっくり!」と言って部屋を出て行った。
それから1時間ほど、モハマッドはハンナがやって来るのを待っていた。
コーヒーメーカーが何度も繰り返し発する蒸気の音にモハマッドは気を取られていた。
「コンコン」
ドアの音がした。
『ハンナだ!』
ノックの音で男か女かわかるモハマッドは、さっきの女性のノックの音はもう頭に入っているから、今度はハンナだと思った。
警戒もせずにドアを開けた彼の前に立っていたのは、輝くばかりに美しいハンナの笑顔だった。
緊張で張りつめていた神経が一気に緩んだ。
ふたりはベッドの上でキスをした。
「いいのかい?」
優しく訊くモハマッドにハンナは微笑ながら応えた。
「おねえさんが、『ここはカイロじゃなくてウィーンなんだから、ウィーン流に合わせたらいい』って言ってくれたの・・・」
肯きながらモハマッドは、恥ずかしそうな表情で言うハンナの口に自分の口を重ねた。
部屋のライトは消えていたが、シャワールームはドアが開いてライトがついていた。
ふたりの抱擁を眺めるように、開いたドアの下の影が少しづつ暗い部屋の中を這うように動き出した。