第五十章  ユセフ姉妹

ホテルヨーロッパからオペラハウスまで歩いて10分だ。
モハマッドは軍服姿のままでオペラハウスに向かった。
ハンナとは7時にオペラハウスで会うことになっていたが、事前に現場をチェックしておくのが、彼の習い性になっていた。
オペラハウスに着いたのは、まだ5時前だったが、楽屋出入り口を探して、そこから何気なく入って行ったら、係りの男がモハマッドを呼び止めた。
「わたしは公安のゲオルグ・ハシムというものだ。今晩のコンサートの事前チェックに来た」
「失礼でしょうが、身分証明書を提示してください。規約ですので・・・」
係りの男が鋭い眼差しでモハマッドに言った。
「ここでは人目につき過ぎです。ちょっとあちらの方へ・・・」
モハマッドからトイレの方に視線をやり、係りの男を促した。
男はまったく疑う気配がなく、モハマッドのうしろをついていった。
それから5分が経って、係りの男だけがトイレから出て来たが誰も異変が起きたことなど微塵たりとも思っていない。
「おい、さっきの制服姿の男はどうしたんだ?」
係りの仲間らしき男が話しかけてきた。
うしろ姿を見せながら、トイレから出て来た男が答えた。
「入り口を間違えたらしく、正面玄関の方を教えてやったよ。正面の入り口で合図してやることになっている」
そう言って、その男は楽屋の前の廊下を通り過ぎて、正面玄関の方へ消えていった。
係りの男でも、タキシードを着るのがオペラハウスの慣わしになっている。
モハマッドは、『これはうってつけの服だ!』と思い、係りの男をトイレに引き摺り込み、強烈なボディブローを一撃したのだ。
猿ぐつわを男に噛ませトイレの部屋に押し込んで、まんまと係りの男のタキシードを拝借したのだ。
正面玄関のホールに出ると、既に多くの観客が押し寄せていた。
『これでは、ハンナを見つけるのは難しいな!』
そう呟きながら、辺りを見回すと、ハンナにそっくりな女性が人を探している様子なのに気がついた。
『まさか!』
罠かも知れないと一瞬疑ったが、ハンナのことを知っているのは、カイロにいる人間だけであることを思い出したモハマッドは大胆にもその女性に話しかけた。
「失礼ですが、どなたかお探しですか?」
背中を見せていた女性が振り返った。
まるでハンナそっくりだ。
「ええ、今晩のパートナーとここで待ち合わせたのですが・・・」
声までハンナそのものだった。
『ハンナとの待ち合わせは午後7時で、まだ2時間近くある。ちょっとこの女と遊んでやるか・・・』
「わたしも7時に待ち合わせているのですが、時間が余っているのです。よろしければ、そこのカフェでお茶でも飲みませんか?」
開演の2時間前から、うろうろすると却って怪しまれると思ったモハマッドが咄嗟に機転を利かしたのだ。
その女性も7時の待ち合わせらしく、モハマッドの誘いに気軽に応えた。
テーブルの下で腕時計を見ると6時30分を回っていたので、モハマッドは事前チェックの為に席を立とうとしたその瞬間、背中の方からまさしくハンナの声がした。
「モハマッド!あなたここで何をしているの?」
突然のハンナの声に狼狽した彼は、黙ってハンナの顔を見た。
「お姉さんも、彼とここで何をしているの?」
先ほどまで一緒にお茶を飲んでいた女性にハンナは話しかけた。
「お姉さん?」
モハマッドは仰天して、二人の女性の顔を交互に見るのだった。