第四十八章  ヒットラーの亡霊

ウィーン郊外まで近づいたモハマッドは、1号環状線であるRing No.1に合流した。
Ring No.1はウィーン市内を走るメイン道路で、郊外から市街地に入るとすぐ右手にハプスブルグ家のシンボルであるシェーンブルン宮殿が見えてきた。
『質素な中に、荘厳なる権威を感じる宮殿だなあ!』
モハマッドはウィーンには何度も来たことがあるが、シェーンブルン宮殿の迫力にはいつもながら圧倒されるのだった。
白色と黄色のコントラストが何とも言えない気品を感じさせ、さすがにヨーロッパ一の名門ハプスブルグ家がその権威を賭けて建設した宮殿である。
アドルフ・ヒットラーはドイツとの国境の町ブラウナに1889年に生まれた。彼が20歳の時、ウィーンの美術大学−正式には造形美術大学−を受験したことがある。
結局、彼は二度の受験に失敗するが、画家をめざし美術大学を受験した理由が、シェーンブルン宮殿にあった。
14才の時に父アロイスが死亡、更に19才の時に母クララが死んで、天涯孤独になったアドルフがウィーンを目指す動機となったのが、ハプスブルグ王朝とその牙城シェーンブルン宮殿だった。
何とかしてハプスブルグ家に取り入って我が身の栄達を計ろうとしたアドルフは、造形美術大学がシェーンブルン宮殿の設計をしたことで有名なことを知った。
造形美術大学の入学試験に二度失敗し、ウィーンのスラム街に移り住み悲惨な生活を送ることになる。
いつもシェーンブルン宮殿を眺めながら、彼は心に誓うのだった。
『必ず、この宮殿を我がものにしてみせる!』
後年、ナチスドイツの総統となった彼が最初に支配下に置いたのがオーストリアであったのも、若い頃の苦い思い出がそうさせたのである。
宮殿の奥にある小高い丘陵地に、ヒットラー総統は立ち、はじめて『ハイル!ヒットラー!』と自分で叫んだのだ。
シェーンブルン宮殿には、アドルフ・ヒットラーの亡霊が今でも棲んでいるということを、モハマッドはモスクワで聞いたことがあった。
ドイツとロシアは永年の旧敵関係にあったが、ロシア革命でロマノフ王朝が倒れてソヴィエト共産党が取って代ると一気にその立場は逆転された。
広大な領地と支配力を誇るロマノフ王朝に対して、ドイツは常に小国分立状態が続き、その中で生まれたのがプロイセンであった。
ウィルヘルム一世と名宰相ビスマルクの合作であったプロイセンは、その後を継いだフリードリッヒそしてウィルヘルム二世の時代になって、外交にその手腕を誇っていたビスマルクが辞任に追いやられた結果、ソヴィエト連邦との関係を悪化することになる。
ソヴィエト連邦はフランスと同盟を結んだ結果、第一次世界大戦に突入したのだ。
敗戦後、ヴェルサイユ条約による体制が敷かれ、ロレーヌ地方にあるアルザスがフランス領に、ポーランド独立によるポーランド回廊が誕生して領土が縮小された。
また巨額の賠償金と1929年に起こった世界大恐慌で天文学的なインフレが進み、マルクは価値を落し、ボストンバッグに紙幣を詰めてパンを買うような状況にみまわれた。
失業者は増大し、ドイツ国民の不満が極大化する中で、ナチスを率いるアドルフ・ヒットラーをドイツ国民は支持したのだ。
ドイツ国民がアドルフ・ヒットラーに托した当時の想いが、第二次大戦後もシェーンブルン宮殿に篭められていると言うのだ。
『ベルリンとウィーンはまさに不倶戴天の敵同士だったんだな!』
シェーンブルン宮殿を右側に眺めながらモハマッドは思うのだった。