第四十章  カザール人

「お前さん、あの男をよく知っているのかい?」
ゲオルグがグスタフに訊くと、暗い表情に変わった白いコック服を着た、その男が喋りはじめた。
「あの狼野郎は、化け物でさあ・・・。奴は輪舞の天才で、あの若さで輪舞のマスターの称号をニジンスキーから授けられたのでがすよ。しかしそれを人殺しに利用していやがるんでさあ!」
ニジンスキーは輪舞の天才としてアルメニアのトビリシで生まれた、トルコ系アルメニア人の、通称カザール人だ。
カザールとは、カスピ海の正式名だ。
カスピ海沿岸に住む人たちは、ペルシャ人でもトルコ人でもアルメニア人でも、カスピ海とは呼ばないで、カザールの海と呼んでいる。
特に、アルメニア人は、オスマントルコが支配し始める前の14世紀まではキリスト教徒の白人だったが、11世紀から13世紀の間の十字軍遠征で、悲惨な目に遭ったイスラム教徒であるオスマントルコ帝国の復讐を恐れ、ユダヤ教徒に改宗して難を逃れた。
しかし、今度はロマノフ王朝とオスマントルコの狭間で苦しむことになった彼らは、カザールの海を捨ててポーランド、東ドイツに新しいカナンの地を求めて移動した。
イスラム密教スーフィズムの中で、最も有名なのが輪舞である。
身体がグタグタに疲れ果てるまで、両手を横に伸ばして、ぐるぐる回るだけの踊りだ。
そして突然回るのを停止する。
そうすると、肉体と意識が分離されて行くのが手に取るようにわかる、一種の瞑想法なのである。
ニジンスキーはカザール人のイスラム教徒という珍しい人種だ。
殆どのカザール人がユダヤ教に改宗したのに、彼の祖先はオスマントルコの寛大さに感激して、キリスト教からイスラム教に改宗したのだ。
ニジンスキーはアル・ヒラジに常々言って聞かせていた。
「ユダヤ教に改宗したカザール人は、いつかキリスト教徒に復讐をしようと、その機会を狙っている。スラブ人によるポグロム(虐殺)は熾烈を極めるものだった。フランス革命もロシア革命も、みんな彼らの仕業だ。わたしはそんな彼らについていけなかった。だからイスラム教に改宗したのだ」
マンスール・アル・ヒラジは、ニジンスキーから輪舞のマスターを授けられて以来、人が変わったようにキリスト教徒への復讐の鬼と化した。
「あいつは、アラブ人でイスラム教徒の俺だから、親しみを以って接していたのだ。俺がキリスト教徒だったら、とっくに殺していただろうなあ・・・」
グスタフの話を聞いていたゲオルグは、トリポリ、バグダッド、バスラで彼と一緒に訓練を受けていた頃のことを思い出していた。
「旦那!狂犬野郎がこっちに来ますぜ!あっしは恐いでがすよ!」
グスタフの全身が震えていた。
いつものゲオルグなら、モーゼス45に手を掛けるところだったが、彼は不思議にそういう気持ちにならなかった。
ゲオルグは自分からアル・ヒラジの処へ歩いて行った。
「旦那!頭がおかしくなったんでがすか?」
グスタフの叫び声も、ゲオルグの耳には入らなかった。