第三十八章  モスクワの操り人形

ゲオルグ大佐は、身分証明書さえ見せればソ連大使館の正面から入ることが出来たが、敢えて裏の方に回り、鉄扉の裏門を乗り越えて侵入した。
ワルシャワのソ連大使館は、他のどの国の大使館よりも立派なものだったが、警備の意識が希薄であった。
それは、他の国でありながら、自国と思い込んでいるからだ。
ソ連を盟主とする東側陣営の基地があり、西ドイツやフランス、イギリスに向かって設置された短距離ミサイルの発射基地でもあったワルシャワは、クレムリンの主人達にとっては、自分たちの庭の感覚でいた。
裏門は一応鉄扉のものであったが、肝心の鉄条網が無い。
マンスールと一緒に大使館の横を通ってホテルに着いた時に、ゲオルグ大佐はしっかりとそのことを確認していたのだ。
『俺は、まだお前さんのことを信用していないよ』
横に座っていたマンスールに向かって、腹の底でそう呟いていたのだ。
鉄扉と門の間にある50cmほどの隙間から体を滑らせて館内に入ったゲオルグは、真っ白な大使館の建物の裏口に入った。
ホテルの爆破事件が起きた直後で、大使館員たちも動揺して警備どころではなかった。
ゲオルグ大佐は、一階の廊下を堂々と歩いた。
ソ連の軍服を着ていたから、誰も怪しむものはいなかった。
「ああ、ちょっと君」
廊下を走り抜けようとした、若い大使館員に彼は声をかけた。
ゲオルグ大佐の左胸の紋章を見た若者は、直立して返事をした。
「はい、何でしょうか!大佐殿」
「マンスール・・・いやすまない、ニジンスキーの部屋はどこかね?」
「はい、ニジンスキー少佐殿は2階の奥の部屋です。わたしが秘書ですので、ご案内致しましょうか?」
いかにも生真面目そうな若者だったが、完全に暗殺者に変貌していたゲオルグの心は氷のようだった。
「それなら、案内してくれ給え」
内心ほくそ笑みながら、『お前も、巻き添えを食って地獄行きだ!気の毒に!』
と呟いた。
二階への階段を上がり、奥の部屋に向かうゲオルグの手にはモーゼル45の銃口が、前を歩く若者の背中に向けられていた。
若者は、ドアーをノックしたが、中から返事はなかった。
『マンスールは、もう俺のことを警戒しているんだ』
そう思ったゲオルグ大佐は、若者の背中に向いているモーゼル45の引き金を容赦なく引いた。
「パン!」
乾いた音と共に、若者の体を貫通した弾丸が木のドアーをも打ち抜いた響きがした。
「ガンン!」
ゲオルグ大佐は、倒れた若者の背中を片足で踏みながら、もう一方の足でドアーを思い切り蹴った。
部屋の中は誰もいなかった。
窓のカーテンが、風で揺れている。
『チッ!』
マンスールが気づいて窓から逃亡したと思った、ゲオルグ大佐は、窓から下を覗いた。
その瞬間、背中の方から声がした。
「ゲオルグ大佐!ニジンスキー少佐はこっちですよ!」
振り返ると、侵入して来たドアーの前にマンスールが立っていた。
『チッ』と一声呟いた瞬間、「ポン!」という音がした。
ゲオルグ大佐の右胸を弾丸が撃ち砕いた。
弾丸の勢いで、ゲオルグ大佐は窓から落下した。
「他愛もない!」
マンスールが言って、窓から下を覗こうとした瞬間、「パン!」と再び乾いた音が窓の下から発した。
今度はマンスールが部屋の中でのけぞって、右の胸を押さえて呷いた。
窓の外から、血だらけになったゲオルグがモーゼルを手に持って部屋の中に入って来た。
「お前は、マンスール・アル・ヒラジではないな!やはり別人のニジンスキー少佐なのかい?」
うずくまっている男に銃口を向けながら、ゲオルグ大佐は訊ねたが、返事はなかった。
「まあ、どっちでもいいさ!」
そう言ってから、銃口を頭に向けたゲオルグ大佐は引き金を引いた。
「ドン!」
鈍い音がした瞬間、床にうずくまっていた男の頭から血しぶきが飛んだ。
『こいつは、モスクワ大学のニジンスキー博士の操り人形だ!マンスール・アル・ヒラジではない。だがホテルに一緒に来た男は間違いなくマンスールだ・・」
独り言をぶつぶつ言っているうちに、廊下の方が騒がしくなったので、ゲオルグ大佐は窓から外に出た。
出血している胸をタオルで強く締めたゲオルグ大佐は、大使館の車を奪ってワルシャワの市街地を出て、国道E30に入った。
その後をついて行く車があった。
「モハマッドはポツナンに行くつもりだろうか、それとも国境の町ゴルゾーか、君はどう思うかね?」
その車の後部座席に座っている男は、助手席に座っている軍服姿の男に訊ねた。
「彼のことだから、ゴルゾーに今晩中に着いて、ベルリンからの迎えの人間を確かめるでしょうね・・・」
助手席の男が答えると、「君はさすがに、彼のことを熟知しているね。アル・ヒラジ君」と言って微笑した。