第二十九章  本物のハムシーン

1973年3月。
ソ連によるエジプト・シェラキア州カッターラ灌漑プロジェクトは本格稼動に入った。
ポートサイドに入港したソ連船オデッセイ号は、黒海のオデッセイ港を出発して、イスタンブールのボスボラス海峡を通過してバルカン半島沖の地中海を一気に南下してやって来た軍用船だった。
灌漑プロジェクト用の機材を積んではいたが、KGBのテロリスト養成教官も一緒だった。
サダト大統領は、わざわざプロジェクトのテープカットの儀式の為に、カッターラまでやって来た。
それほどに、サダト大統領にとっては重要なプロジェクトであったのだが、ナセル大統領がアスワンハイダムの竣工式の時にやったような派手なデモンストレーションは一切せず、エジプト全土にネットワークがある農作物共同組合(Rice Cooperative)の組合長を招待して、エジプト国民の食生活向上を訴えることに力をいれた。
「今度の大統領は、地味だが堅実に一歩一歩進んで行く実務派だな」
サダト大統領の姿を見て、カスティーヨがモハマッドの耳もとで囁いたが、モハマッドはまったく違うことを考えていたので、ただ頷くだけだった。
『アンドロポフのまわりにいる連中は、どう考えてみても潅漑プロジェクトのメンバーとは思えない。多分、プロのテロリストだろうな』
モハマッドの視線はサダト大統領のすぐ傍で微笑んでいるアンドロポフとそのお付きの連中に向いていた。
「おじさん。もうひとつのプロジェクトはいつから始められるのですか?」
真剣な眼差しでモハマッドに見られたカスティーヨはアンドロポフの方に視線を向けながら答えた。
「彼の健康次第だろうな。彼のまわりにいる連中がテロリスト訓練の教官だろうけど、やはりアンドロポフがいなけりゃ何もできないだろうよ。それより、モハマッド。お前はそんなにテロリストになりたいのかい?俺は、お前の親父の弟だから、簡単に割りきるのが難しいよ。だが、お前は一流のテロリストになる素質を充分に持っていることだけは確かだね」
モハマッドは、自分がテロリストに向いているかどうか自信がなかったが、バスラの訓練でも誰もが認めていたことを思い出した。
『みんなが、俺のことをそう言うが、一体この俺のどこが・・・』
自分に訊いてみるのだが、未だにわからなかった。
「アンドロポフが言っていたよ。一般のテロリストは冷徹な奴がほとんどだが、超一流は人格者に間違えられるぐらい穏やかな物腰をしているらしい。KGBではテレパシーを駆使した暗殺者を養成しているらしいが、その研究の中で、冷徹な人間より温厚な人間の方が暗殺者になる素質があることが判ったらしい。お前は一見激しい性格のように見えるが、実は非情に温厚な性格であることは自分でわかっているだろう?」
モハマッドは頷いた。
子供の頃から、自分の性格の二重性に気がついていた彼だったが、表に出ている激しさが実は自分の温厚さをカムフラージュしていることには、さすがに気づかなかった。
しかし中東戦争でシナイ半島に派兵された時に、この複雑な二重性に気がついて慄然としたのだ。
内面の気性の激しさを隠すために、表面上は温厚な態度をとるのが一般なのに、彼の場合は逆なのだ。
『どうして温厚な面を隠したがるのか、自分でもわからない。激しさを見せて自分に一体何の得があると云うのだ』
しかし、イスラエルとの戦闘で、その二重性が遺憾なく発揮されたのだ。
戦線はイスラエル側の一方的勝利だったが、モハマッドの恐るべき残忍さにイスラエル軍は戦慄した。
『自分でもシナイ戦線に行くまで気づかなかったこの残忍さを、あの男は一目で見抜いた。恐ろしい男だ』
ロシア人典型の図体の大きさと、眼鏡の奥で光る冷酷な目をしたアンドロポフの姿を見てモハマッドの体は震えた。
そのとき、西の方角から突風が吹いた。
サダト大統領のSP部隊と、アンドロポフのお付きの者たちが、ふたりをガードするように取り囲んだ。
しかし、その突風は、二人の男を渦の中に吸い込んで空高く舞い上がって数百メートルもの竜巻と化していた。
「すごいハムシーンだ!」
誰かが大声で叫んだ。