第二十六章  KGB議長アンドロポフ

翌日、ミスール・タイムズは、ドッキシェラトンホテルとビデオ倶楽部での爆破事件は、ソ連の諜報機関KGBの仕業だと報じた。
カイロ市内の官庁街カスールニールのど真ん中にあるソ連大使館の前には、エジプト市民のデモ隊が集まり、『KGBに支配されたソ連をエジプトから放り出せ!』と書いたプラカードを掲げてシュプレヒコールを繰り返した。
冷戦が始まった当時のソ連の指導者は、第二次世界大戦時のスターリン時代に、ドイツが占領したヨシフ・スターリンの出身地ボルゴグラードの攻防戦で冷酷非情の軍事会議委員として悪名高かったニキータ・セルゲイビッチ・フルシチョフであった。
ボルゴグラードはソヴィエト連邦の南部を流れるボルガ川の河口近くにある港町で、且つ商工業都市として交通の要所であったことと、独裁者ヨシフ・スターリンの生地であり、スターリングラードという地名に変えた程の、スターリン政権にとっては重要都市であった。
フルシチョフは、スターリングラードを占領したドイツ軍を包囲して潰滅させた功績で、1942年ウクライナからモスクワに戻ってソ連共産党中央委員会書記に就任した。
その後、1953年3月にヨシフ・スターリンが死ぬと同時に、第一書記に就任し、実質上のソヴィエト連邦の支配者になっていった。
スターリングラードでのドイツ軍との攻防戦でフルシチョフは味方の兵隊の犠牲を厭わずドイツ軍を潰滅させた為、味方のソ連軍から恨みを買っていた。
1964年、農業政策を失敗させたフルシチョフは、レオニード・イリッチ・ブレジネフによって解任され失脚した。
ブレジネフは、KGB長官ベリアを裏切ったフルシチョフに対して恨みを持っていたベリアの部下で次のKGB長官になったユーリー・アンドロポフを取り込んで、ウクライナの農業政策を意図的に失敗させ失脚を狙ったのだ。
ソ連にとって、食料問題が最大の課題であり、政権を維持する為には、ソ連の穀倉地帯であるウクライナの農業政策に失敗することは致命傷になる。
エジプトとの農作物供給協定は、ソ連指導部にとっては重要課題であった。
カッターラ地域のサハラ砂漠潅漑プロジェクトは、そのような中でスタートした。
協定書締結直後に、爆破事件が起こり、それがソ連のKGBが仕組んだものと報道されたのは、ソ連にとっては大きなダメージであった。
KGB長官アンドロポフは、軍用機でカイロに乗り込んで来た。
KGBとの会談は飽くまでも秘密裡のものであったから、サダト大統領は、大臣や長官等を一切表に出さなかった。
そしてアンドロポフとの話し合いの責任者に、カスティーヨ・ハッサンを指名したのだ。
ミスール・タイムズは、その情報を知っていたが、大統領から緘口令を敷かれていた為に報道出来なかった。
しかし、モハマッドはカスティーヨから聞いていて、アンドロポフとの会談に護衛として出席するように言い渡されていた。
カスールニールにある潅漑省の次官室で会談は行われた。
ハンナの父親、ヨセフ・マムードは潅漑省の事務次官だったのだ。
大統領は出席せずに、カスティーヨ・ハッサンとヨセフ・マムードがアンドロポフを迎えた。
カスティーヨとアンドロポフはお互い顔見知りであったことが、今回の会談の責任者にカスティーヨが選ばれた理由だと聞いたモハマッドは、ますます叔父であるカスティーヨの底知れなさに脅威を感じていた。
「やあ、カスティーヨ相変わらず元気なようだね」
KGB長官アンドロポフから握手を求めて来た。
「プラハでの活躍は大したものだね」
ソ連の高官に対してもカスティーヨは敬語も使わない。
1968年に、チェコスロバキアのドプチェク指導の下に行われようとした自由化政策を、ワルシャワ条約機構の名の下に、アンドロポフの命令でプラハに軍事介入したチェコ事件で、一般には「プラハの春」と呼ばれた事件の主人公がアンドロポフだった。
「それは、皮肉かね?」
アンドロポフは笑いながら、眼鏡の奥からキラリと光った鋭い目でカスティーヨを睨みつけた。
「まあ、そうお互いに興奮せずに、今日の議題は、昨日起こった2件の爆破事件と、カッターラ潅漑プロジェクトの件に絞りましょう」
潅漑省次官のヨセフ・マムードが二人の間に割って入った。
「昨日の爆破事件はモサドの仕業に決まっているじゃないか!そんなことは、サダトもカスティーヨも重々承知のはずだ!」
吐き捨てるようにアンドロポフは言った。
「それよりも、カッターラの潅漑プロジェクトに、また我々KGBが介入して、フルシチョフ失脚劇と同じ手を使われたくないのだろう?」
アンドロポフは、実にシャープな頭脳をしている。
『すべてお見通しだな!』
カスティーヨは呟いた。
「カッターラプロジェクトは、このマムード次官にとって重要案件だが、俺にとっては、モサド対策が一番大事なんだ。わかるだろう、ユーリー?」
アンドロポフが肯いた。
カスティーヨにしても、アンドロポフにしても、舞台裏の仕事師である。
お互いに何が狙いなのか知り抜いていた。
「まあ、とにかく潅漑省の次官さんが出席しているのだから、そちらを先に片付けて欲しいな」
アンドロポフの方を向いて、カスティーヨは言った。
「OK、じゃあサインしよう。マムード次官とか言ったね」
モハマッドは、KGB長官がエジプトの潅漑プロジェクトの覚書きにサインする異様な光景を見ながら確信するのだった。
『将来、この男がソ連のボスになるだろう』
ユーリー・アンドロポフ56才、男の盛りであった。
レオニード・ブレジネフ64才、男の盛りは既に過ぎていた。