第二十五章  暗殺未遂

モハマッドとハンナは、パブに二人でいた。
イスラム教の国と言っても、エジプト、特に首都のカイロは国際的都市である。
どこに行ってもアルコール類は飲めるし、商売女もいる。
モハマッドとハンナはカイロ大学の学生だが、平気でビールを注文した。
ビデオ倶楽部は、エジプトのVIPが集まる処で、特にナセル亡き後のサダトはオープンポリシーを展開してソ連寄りの東側諸国からアメリカ寄りの西側諸国の陣営に入ろうとして、西側要人と非公式に会談できる場所としてビデオ倶楽部を使っていた。
ナセルの時代からあった倶楽部で、当時はソ連の将校が、この倶楽部にしょっちゅう出入りしていたが、今やソ連の将校の姿などまるで見られない。
エジプトという国は、ローマ帝国の影響を大きく受け、またアレキサンドリアはローマ帝国時代にキリスト教の中心地の一つでもあった為に、心理的には、西側寄りの国民性を持っていた。
ナセルの強引なやり方で、ソ連と仲良くやっているように見えたが、内心ではエジプト人の殆どは、ソ連に対してアレルギーを持っていた。
エジプト人の多くは、「ナセルは尊敬するが、ソ連は嫌いだ」というスタンスだったのを、副大統領の時からサダトは知っていた。
ナセルが急死した時には、一時、サダトの暗殺陰謀説まで飛び交ったが、サダトの人格を良く知っている国民は、自然にそんなデマを忘れていった。
今では、サダトしか、この閉塞状態のイスラエルとの闘いを解決出来る者はいないと、国民の大半が思っていた。
更に、サダトは経済政策で、国民の大きな支持を得た。
国民の主食であるエジプト米とナンの材料である小麦に対して政策的価格を打出し、生産者物価の10分の1で小売りする思い切ったことをやった。
エジプトの一人当りの国民総生産は、世界最高水準であるアメリカや日本の100分の1という最貧国であるにも拘らず、国民の生活水準は近隣諸国に比べたら豊かであった。
それは一重にサダトの思いきった西寄りのオープンポリシーが功を奏したのであった。
「サダト大統領と、君の両親とは、一体どういう関係なんだい?」
モハマッドはハンナに訊いてみた。
「わたしの父は、潅漑省の役人で、シェラキア州のカッターラでソ連と合同で、サハラ砂漠を潅漑してアルファルファーの牧草地帯を開発するプロジェクトの責任者をやっているの。ナセル大統領は、潅漑よりもアスワンハイダムの完成に全力を尽くしたけど、今度の大統領は、潅漑プロジェクトにとても積極的で、食料の大増産によって、思い切った食料の価格政策を遂行しようとしているの。国民にとっては、食料問題の方が、アスワンハイダムより先決問題であることを、よく御存じなのね」
ハンナが、熱っぽく語るのを聞いていたモハマッドは何か奇異なものを感じていたが、それには敢えて触れなかった。
「そうだね、アスワンハイダムはナイルの洪水を避けてくれることと、停電が少なくなった以外は、我々一般国民にとっては大した恩恵は感じないけど、米と小麦が10分の1の価格になったのは、非常にありがたいことだね」
エジプトがイギリスとフランスの支配から独立した時、ナセルとサダトは陸軍将校だったが、自由将校団を結成してエジプト革命を成功させたが、革命にとって最も厄介なことが、革命後の国の経済的破綻である。
特に一般国民に食料がまわらず、飢饉に陥るのが常である。
そういう点においても、リビアのモアマールカダフィー大佐は戦略的革命を成し遂げた。
革命直前に、リビア国民に対して革命の意義を訴えた。
当時の国王がアメリカの国際石油資本に操られて、ヨーロッパへの石油供給源として利用されている事実を訴え、その支配からの独立こそが革命の狙いであると、国民に知らしめ、革命後の国民の生活の改善を約束し、またその約束を守った。
一方、フランス革命やロシア革命の後には、ひどい飢饉が襲った。
オキシデンタルペトロリアムのアーマンドハマーはアメリカで調達した100万トンの小麦をレーニンのソ連に送ることで、飢饉からソ連を救出したが、それはソ連国民ではなく、新しい国ソ連を支配するボルシェビキに対してであった。
数千万人のソ連国民の餓死を、100万トンの小麦は救うことは出来なかった。
ソ連は必死に食料供給源を海外に求めていた。
エジプトは、昔からヨーロッパへの野菜供給国で、特に、じゃがいもの最大供給国であった。
革命後のエジプトに目を付けたソ連の狙いは、食料であったのだ。
ナセル政権のアスワンハイダム建設に協力したのも、じゃがいもをソ連に供給するのが交換条件であった。
ナセルはエジプト国民の口からじゃがいもを奪って、ソ連に送ったのである。
それを苦々しく思っていたのが、同僚で副大統領だったアンアールサダトだった。
サダトが大統領になると、すぐに食料問題に手をつけたのも、過去の経緯から、エジプト国民にも理解された。
ソ連は、サダトになってからの変節ぶりに危機感を持って、カッターラの潅漑プロジェクトの応援を受けたのだ。
「大統領は、潅漑プロジェクトの報告を、お父さんから受ける為だと思うわ」
モハマッドはハンナの説明に、不自然さを感じた。
『報告なら、公式に受ければいいのに、何故、こんな処で聞く必要があるんだろう?しかし、ハンナにそれを詰問しても、知っている筈がない』
そう思ったモハマッドは、奥の部屋で叔父のカスティーヨも同席しての、大統領のテーブルに目をやった。
一見、静かなディナーの雰囲気に見えているが、実は、その後に起きる、世界を揺るがす事件の発進基地が、そのテーブルであったことをモハマッドは知るべくもなかった。
その瞬間(とき)、モハマッドは微かに何かが燃えているような音を感じた。
バスラでの訓練が、五感の感度を動物並みにしていたからだ。
『これは火縄の燃える音だ!』
咄嗟にモハマッドは叫んだ。
「みんな、テーブルの下に隠れて!爆弾が仕掛けられている!」
モハマッドの叫び声を聞いた、カスティーヨは、すぐに大統領とハンナの両親を、大きなダイニングテーブルの下に押し込んだ。
その直後に、倶楽部の玄関辺りで、もの凄い爆発音がした。
モハマッドの咄嗟の機転で、全員がテーブルによって助けられた。
ほとんど無傷で済んだ、彼らは、すぐにモハマッドの処へやって来た。
「君たちは、大丈夫かい?」
サダト大統領が真っ先に二人に声を掛けてきた。
二人は、大統領に声を掛けられる迄、抱き合っていた。
気がついた二人の前に立ったサダト大統領、両親、そしてカスティーヨは和かに、抱き合うモハマッドとハンナを、見つめていた。
「彼の、トリポリ、バグダッド、バスラの旅は無駄じゃなかったね」
微笑ながら、サダト大統領は、カスティーヨに話し掛けた。
しかし、カスティーヨは頭の中で、『これは、大統領暗殺未遂事件だ!』と叫び続けていたのだ。