第二十三章  ムラ・カスティーヨ

カスティーヨ・ハッサン。
モハマッドの父、オサマの末弟で、モハマッドにとっては叔父になる。
カイロ中央警察の警部をしていると、モハマッドも聞いたことがあったが、まだ一度も会ったことはなかったのだ。
父のオサマは長男で、末弟のカスティーヨとは20才も歳が離れていた。
長男のオサマから見れば、弟というより子供のように思っていた。
カスティーヨは、ハッサン家の末子ということで、小さな時から、イスラム教の僧侶ムラになるべく運命づけられていた。
12才で、エジプトでは珍しい、シーア派のザガジッグ・モスクで修行する為に出家し、18才でザガジッグ・モスクの筆頭ムラになった程のエリートだった。
毎朝5時にモスクから流す、コーランのお祈りの言葉を、15才の時からカスティーヨが担当して、カイロ中のモスクの中で、最も美しい祈りをするムラとして、名声を得ていたのだ。
ところが1958年の第一次中東戦争が勃発して、18才のカスティーヨは連合軍に志願してシナイ半島に派兵された。
イスラエル軍による凄まじい近代兵器による攻撃に衝撃を受け、アラーの神に対する絶対的信頼を喪失してしまったのだ。
キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、異教徒との戦いを、「聖戦」と呼ぶ。
要するに、一神教の世界では、自分たちの神以外は認めないのだ。
唯一の自分たちの神の為に戦うから聖戦と呼ぶ。
しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一神は、同じヤーヴェの神なのである。
実は、アラーの神もヤーヴェの神と同一神だ。
それは旧約聖書で、神が天地創造をした時に、天地の意識として、「在るべくして在るもの」と宣言したからで、その言葉をヘブライ語にするとヤーヴェとなり、アラブ語ではアラーとなるが、要は、"I am that I am"ということである。
聖戦であるからこそ、出家したムラの立場でありながら、カスティーヨは軍隊に自ら入った。
しかし、シナイ半島でカスティーヨを待っていたものは、宗教に対する失望だけであった。
心をずたずたにされたカスティーヨだが、目から鱗が落ちる気持ちでもあったことは確かだ。
『敵のイスラエル軍もヤーヴェの神の名の下に、聖戦と叫んで絶対勝利を信じている。我々アラブ連合軍もアラーの神の名の下に、聖戦と叫んでいる。どちらも絶対勝利を信じて、同じ神の下で殺し合いをする。こんな矛盾した話はない!』
そう思ったカスティーヨは、ヘルメットと軍服を投げ捨て、カイロに帰って来た。
そして、カイロ警察の警官になったのだが、巷間では、対イスラエルゲリラ組織をつくる為に奔走していると、モハマッドは父のオサマから聞いていた。
カスティーヨの最大の切り札は、ギザのピラミッドで発掘された「死人の書」を解読できる唯一のムラとしての名声だった。
彼が号令を掛ければ、多くの若者が馳せ参じるだろう。
ナセルが健在であった時は、公にゲリラ組織を結成する作業を推進できたカスティーヨだったが、サダト大統領になって、イスラエルとの協調路線が明確になってきた為に、地下組織に潜らざるを得なくなっていた。
カイロ中央警察の警部という肩書で、カモフラージュしていたのだ。
ドッキ・シェラトンホテルの爆破事件は、イスラエルのCIAであるモサドが仕掛けたことは明白であったから、しょっぱなから、カスティーヨが出て来たのだが、甥のモハマッドが絡んだ事件だと知って、さっさと引き上げたのである。
そんな事情を知らないモハマッドは、無事だったハンナとの再会を祝って、ギザ通りにある、ビデオ倶楽部で夕食をすることにした。
「じゃあ、9時にビデオ倶楽部でね」
ハンナの父親は高級官僚で、昔からの上流家庭に育ったから、カイロで一番格式のあるビデオ倶楽部には両親と共に、小さい時から出入りしていた。
「こんな事件があったから、家まで迎えに行こうか?」
モハマッドは、ハンナの家庭を知りたくて、迎えに行こうとしたのだが、ハンナは笑みを浮かべて軽く首を横に振った。
エジプトでの夕食は遅い時間から始まる。
厳しい気候の中での知恵で、仕事は朝から一シフトだけで、昼食の時間抜きで午後3時まで続けられる。
それで一日の仕事は終了する。
3時から昼食をとるから、夕食も当然遅くなる。
9時頃から始める夕食は12時まで延々と続けられる。
しかも、朝は7時ぐらいにはもう仕事を始めているから、当然ながら睡眠不足になる。
その分を補う為に、3時の昼食後昼寝をするのが彼らの習慣なのである。
モハマッドも、ハンナも、一旦家に帰って出直すつもりだった。
瓦礫の山となったシェラトンホテルのエントランスで、ハンナと別れたモハマッドを1台の車が待ち受けていた。
ユニバーシティー通りに出たモハマッドの処に、その車は走って来て急停車した。
ドアが開けられ、中を覗くとカスティーヨが座っていた。
「やっぱり、叔父さんですか!」
モハマッドの言葉を無視するように、助手席に座っていた男が出て来て、強引にモハマッドを車の中に押し込もうとした。
「俺の甥だから、手荒なマネをするな!」
カスティーヨが怒鳴ると、その男は直立不動になって立っていた。
「まあ、乗れよ、モハマッド」
静かな口調で言ったので、モハマッドも黙ってカスティーヨの隣の席に座った。
「お前とは初対面だな。オサマは元気かい?・・・・・・そうか、ずっとシナイにいたんだな。今夜はゆっくりシナイの話をしよう」
モハマッドは迷った。
カスティーヨとも話をしたかったが、ハンナとのデートも諦め切れない。
「何だ、あの女の子とデートかい?」
見抜かれたと思ったモハマッドは、居直って正直に言った。
「ビデオ倶楽部で9時に約束しているんです」
カスティーヨは笑いながら、「兄貴のオサマとよく似て、正直だな。それじゃ、9時までビデオ倶楽部で話そうか」
モハマッドも嬉しそうに頷いた。
ビデオ倶楽部は、ギザのピラミッドに通じるギザアヴェニューにある、カイロで最も高級な会員制倶楽部だ。
24時間オープンで、エジプトのVIPが集まる処だ。
二人が入って行くと、軍服姿の高級将校達がカスティーヨの処に寄って来て握手をした。
『叔父さんは、かなりの大物なんだなあ!』
感心していると、目の前に鼻の下に髭のある初老の男が立っていた。
彼の顔を見たモハマッドは、「ああ!」と叫んだ。