第十章  ジハード(聖戦)戦士の訓練

バスラは、世界でも屈指の灼熱の町である。
猛烈な熱帯モンスーンがやって来た年に、インドのカルカッタで摂氏53度に達し、鉄道のレールが熱さで膨張して、曲がりくねってしまって列車が走れなくなったことがある。
その後、バスラで、やはりハムシーンがやって来た直後に摂氏55度に達したのが、史上最高の気温だと言われている。
アメリカ・ネバダ州にあるデスバレー(死の谷)でも、毎年摂氏60度近くなるが、このデスバレー国立公園は、6月から9月まではホテルから何から何まで、すべてクローズされ人気のまったくない時期に、恐るべき高温になる世界最高の極暑地である。バスラのように、年中、人がたくさん住んでいるところで摂氏50度を超えるのは想像を絶するものだ。
カイロで育ったモハマッドは、真夏に45度近くまで暑くなった経験を子供の頃にしたが、さすがにバスラの暑さには度肝を抜かれた。
カイロも昔は、ハムシーンが最も多く発生するところで、雨はほとんど降らなかった。
しかし、アスワンハイダムができて、ナセル湖という巨大な人造湖ができてから、気候が徐々に変わり、今では12月が雨のシーズンになる程に変わってしまった。
ナイル川の巨大な水量が、天候に大きな影響を与えたのだ。
モハマッドとマンスールは、これから他の40人の仲間と一緒に、極暑の地で厳しい訓練を受けるのだ。
「暫くは、わたしが教師となって訓練を行います」
マンスールがモハマッドに伝えた。
「わたしが、40人のリーダーになるとのことですが、一体どんな訓練を受けるのでしょうか?」
マンスールは暫く黙っていたが、ようやく重い口を開いた。
「あなたはリーダーになる方だから、はっきりと申し上げておいた方が良いと思います。
聖戦の戦士なんですから、当然常に死を覚悟しておかなければなりません。」
モハマッドは苦笑しながら応えた。
「別にジハードの戦士でなくても、戦争に赴く兵隊は、誰でも死の覚悟をしていますよ。わたしだって、シナイ半島に行った時は、覚悟して行きましたよ。まだ20才になったばかりの子供でしたが」
表情ひとつ変えずに、マンスールは話を続けた。
「あなたはトッコータイとか、ニンゲンギョライという言葉を知っていますか?」
言葉の響きが、およそアラビア語でも、英語でもない、聞き馴れない言葉だ。
「いえ、知りません」
単純にモハマッドは答えた。
「さすがに、リーダーになる素質を持っておられますね」
何のことかモハマッドは理解できなかった。
「わたしが知っていますか?と訊ねたら、あなたは、ただ、いえ、知りません、とだけ答えた。ここが非常に大事なことなのです。普通の人間は、余計な言葉まで吐いてしまうものです。それは自己保身の顕れなのです。正に墓穴を掘るとは、このことを言うわけで、ジハードの戦士として最もやってはならないことです」
頭の切れるモハマッドは、マンスールの説明に応酬した。
「敵に捕らえられても、口を絶対に割らない訓練ですか?」
マンスールは、モハマッドの質問に応えず説明を続けた。
「マインドコントロールのことを話しているのですが、人間というのは、口で死を覚悟していると言っても、いざ死と直面すると、震え上がる人間が大半です。現代戦では銃やミサイルといった空中戦ですから、予想もしない瞬間に死がやってきます。恐ろしさで震えている暇もないのです。あなたは、シナイに行って、目前に敵が現れて肉弾戦をしたことがありますか?あれば、今おっしゃったようなことを口に出されないはずです。本当に死を覚悟することは、大変な精神的プレッシャーなんです。さきほど申しました、トッコータイやニンゲンギョライと言うのは日本語です。日本がアメリカと戦争した世界で唯一の国であることをご存知ですか?」
日本という国のことを聞いたこもなかったモハマッドは、マンスールの話に興味を持った。
「アメリカと戦争をやった国はいくらでもあるんじゃないですか。ソ連もそうだし、ベトナムもそうですし・・・・」
モハマッドは自信無さそうに話した。
「わたしの言っているのは、正面から堂々と戦争をした国のことを言っているのです。
ベトナム戦争は、少し似ていますが、それでも、一国を相手の戦争ではありません。飽くまでゲリラ掃討戦です。アメリカという国は、一対一で戦争すると、悪魔の本性を出す国なのです。それを世界の国はよく知っているのです。ソ連でさえ正面から戦争を仕掛けません。同じ人間が住む場所に原爆を平然と落す国ですから恐ろしいのです。それと彼らは非常に狡猾で、勝てる戦争しかやりません。第一次世界大戦でも情勢がはっきりするまで高みの見物をして、そして勝てると判断したら参戦しました。
そんな国と正面から戦争をしたのは日本という国だけです。アメリカは絶対に勝てると見て、当時のルーズベルト大統領は、世界に日本への経済制裁を強制します。そしてインドネシアの宗主国オランダが、インドネシアから日本への石油輸出禁止をするのです。やり口が汚く極まりないのです。わたしたちイスラム国家は、日本と似た精神構造を持っていて、いくら戦争と言ってもルールを守ります。国際法では、敵対国であっても、一般住民の地を攻撃することは禁じられています。しかし、彼らは東京大空襲、そして原爆投下を平然とやります。これは明らかに国際法違反です。
その国が東京裁判をして日本を弾劾するのです。こんな不条理がありますか。
彼らアメリカ人は、日本のトッコータイやニンゲンギョライに怯えたのです。若い青年が、爆弾を抱えて敵の中に飛び込んで行くのです」
モハマッドもマンスールの話を聞いて仰天した。
「しかし、彼ら青年は、国のことを思って喜んで死んでいくのです。たとえそれが犬死にであっても、彼らは国の為、国民の為に、生命を捧げて死んでいけることに、喜びと誇りを感じていたのです」
熱っぽく語るマンスールの目が潤んでいるのを見た、モハマッドの目もキラッと光っていた。
「その日本という国は、どこにあるんですか?原爆を落されてから、どうなったのですか?」
モハマッドは日本という国に親しみを感じると、いろいろと知ってみたくなったのだ。
「原爆を落されてから25年が経ちましたが、やはりドイツと同じように優秀な民族なんでしょうね。もの凄い勢いで経済成長を遂げ、今やソ連を凌ぐ復活をしています」
ますます、日本という国の凄さを知ったモハマッドだった。
ソ連はナセル大統領の下に、アスワンハイダムを建設した超大国でアメリカと対等に戦うことができる国だと思っていた。
もう少し、ソ連が応援してくれたら、イスラエルとの戦いで、一方的な負け方をしなかったと思っていた。
そのソ連を凌ぐ経済大国に、アメリカから原爆を落された国が復活していることに、モハマッドは脅威と尊敬の念を抱くのだった。
「その日本の国の兵隊にトッコータイやニンゲンギョライがいたんですね?」
マンスールは頷いた。
「トッコータイやニンゲンギョライの戦士を訓練するのが、狙いなんですね?」
モハマッドは誇らしげにマンスールに向かって言った。
「そうです。わたしも誇りに思います。アメリカやイギリスの兵隊にとっては、馬鹿げた、愚かな行為だと思うでしょうがね・・・所詮価値観の違いだけです」
マンスールは、アメリカやイギリスの国の話をすると、我を忘れて興奮する。それに違和感を持つモハマッドだった。
「それで精神力を養う為に、極暑のこの地を選んだのですね?」
少しずつ、マンスールの考えていることが、解りかけてきたのだ。
「最初の、わたしが教師になると申しましたのは、円舞を訓練するからです」
やっとマンスールが考えていることが解りかけてきたのに、円舞だと言われて戸惑うのだった。
戦士にダンスを教えると言うのだ。
「どうして円舞が、ジハードの戦士の精神訓練に役に立つのでしょうか、わたしには想像もつきません」
両手をあげて万歳をするモハマッドの前で、マンス−ルは、ぐるぐる、両手を広げて回り出した。
「何と、美しい姿なんだろう!」
モハマッドは感動した。
人間の精神修養に一番の栄養分は感動することであることを理解できるまで、モハマッドの精神レベルが到達しているはずもなかった。