第一章  敗戦とナセルの死

モハマッドはハッサン家の長男として、カイロ市内の中心地にある官庁街のカスール・ニールの近くで生まれた。
父親のオサマはカイロ郊外にある綿花工場の経営者であったが、社会主義のナセル時代には、利益追求の営利企業は認められず、結局、昔からシルクロードの隊商として商いに長けていた、レバノン人やシリア人に搾取され、綿花から紡いた糸を、彼らに安く叩かれる貧しい時代が続いた。
ところが、ナセル時代に、中東戦争が勃発した。
1948年5月14日、スイスのバーゼルでイスラエル国家が成立した次の日に、アラブ連合軍が建国翌日のイスラエルを攻撃した。
モハマッドは奇しくも、第一次中東戦争勃発の日に誕生した。
カイロから再び、二つの川に分かれるナイル川の東側の海への出口、ポートサイドは、スエズに近く、圧倒的近代兵器を米国から供給されているイスラエル軍は、シナイ半島を占拠し、スエズ運河までを、手中に収め、エジプトの唯一の商業港に迫ろうとしていた。
レバノンやシリアもアラブ連合の一員で、ヨルダン、イラクも合流した連合軍は、冷戦が始まって、圧倒的軍事力と経済力を誇る米国のイスラエルに対する応援と同じものを、ソ連に期待するのが無理だった。
結局、アラブ連合から戦争を仕掛けたのに、結果はイスラエルの圧倒的勝利に終わり、エジプトはシナイ半島を奪われる結果となった。
それから二十年近い歳月が過ぎ、モハマッドはカイロ大学のアラビア語学科に通っていた。
1967年第三次中東戦争が勃発し、モハマッドは徴兵されアラブ連合軍の将校として戦地のシナイ半島に赴いた。
そこで彼が見た光景は、およそ戦争とは思えなかった。
まるで、大人と子供の喧嘩であり、味方の軍は、敵のイスラエル軍のやりたい放題の中で、自分の身を守ることで精一杯だった。
ナセル大統領が、雄雄しくカイロで演説した、アラブ連合軍の勇敢さなど、微塵も感じられるものではなく、結局は、聖地イェルサレムまで完全支配される結果となり、まるで陵辱を受けても為す術もなく呆然としている哀れな女の体が、実態であることを目の当たりにしたのである。
そして、1969年、隣国のリビアで、当時陸軍少佐であったカダフィーが軍を指揮してリビア無血革命に成功した。
またシリアのアサドもヨルダンのフセイン国王と袂を分かち、ソ連寄りの体制を確立し、自ら大統領に就任して、リビアのカダフィー大佐と連携プレーを取り、反米姿勢を明確に打ちだした。
そして1973年、第四次中東戦争で、イスラエルは米国から供給された近代兵器で以って、遂にパレスチナ全域を、その支配下に置くことに成功し、1947年11月19日にイスラエル国家と共に成立したアラブ国家パレスチナは消滅した。
1967年の第三次中東戦争で、連合軍に参加したモハマッドは、はじめは、徴兵義務感だけの気分でいたが、子供同士の喧嘩の中に、もの凄い体をした、米国という大人が間に入り、イスラエル側に一方的に加担して、敵側の子供たちをずたずたにした光景を目の当たりにして、イスラエルというより、米国に対する憎悪の気持ちを強めていくのだった。
我が国家エジプトも、シナイ半島を奪われ、ソ連の後ろ盾で権力を握っていたナセルの名声も地に落ちていった。
一方、ナセルのエジプトとはまったく違った道を歩み出したリビアのカダフィー大佐は、冷戦の主役である米国ともソ連とも与しない、イスラム教圏の結束を高々と訴え始めていた。
カダフィー大佐にエールを送るアラブ国家が次々と出現しだした。
イラクのフセイン、シリアのアサドがその急先鋒となり、アラブ国家間にも不協和音が出て来た。
レバノンのベイルート紛争が、そういう中で勃発した。
シリア軍がベイルートの郊外にあるシリアとの国境ゴラン高原に攻め入ったのである。
レバノンの首都・ベイルートは地中海のパリとまで言われた町で、海岸沿いに立ち並ぶホテルとレストランは、まさに観光客で年中溢れていて、その中心街のハネダは、歓楽街のアーケードでイスラム教国でありながら、国際色豊かな売春婦がたむろし、観光客のみならず、軍人を相手に商売をしていた。
傷心でカイロに帰ったモハマッドは二十二歳になっていた。
しばらくぶらぶらしていたモハマッドは、カイロ大学生に復帰したが、勉強に身が入らず、父親の事業の手伝いをしていた。
カイロからナイルデルタの農業地に行く途中に綿花工場があって、そこでマネージャーをやっていた時、ナセル大統領死亡のニュースが入って来た。
アラブ連合の指導者として名声をほしいままにしていたナセルだったが、数回に亘るイスラエルとの戦争の敗北が、彼の心身を蝕んでいたのか、まさに青天の霹靂のような出来事だった。
ナセルの後を継いだサダトはスーダン人の血を強く引いた温和な大統領だった。
彼の政策は内政に向けられた。
オープン政策という名の下に、ソ連寄りの政策から、自由主義国家を目指し、内外の経済行為をすべてオープンにして自由貿易を促進した。
それと同時に、レバノン人とシリア人に牛耳られていた国内の商売を取り返す為、エジプト人以外の商売を禁止する政策は、エジプト国民から大歓迎を受けた。
エジプトのサダトによるオープン政策は、忽ち、欧米自由主義国家からも大歓迎され、エジプトに対する投資の嵐が一挙に吹き出した。
カイロ市内には、多くの高層ホテルが建ち、ホテルにはカジノまであり、イブニングドレスとタキシードを着た、外国観光客のみならず、エジプト人のハイソサエティーが週末の木曜日になるとホテルを活気づけた。
オサマ・ハッサンの経営する綿花工場も、サダトの政策で一気に利益を上げ、モハマッドの商売センスの良さに期待していたオサマは、モハマッドに跡を継がせたいと思っていた。
しかし、モハマッドの戦争による傷心は癒えていなかった。
彼は、暇があれば、ナイルの中の島にあるドッキに建てられたシェラトンホテルのカジノに行っては、博打ちと女遊びに耽る毎日を続けていた。
そこでアレキサンドリアに拠点を置いて大規模なビジネスを展開していたモハマッドガラブと偶然会ったのだ。
ガラブは、ナイル川のもう一つの地中海への出口で、有名なクレオパトラが住んでいた美しい港のある古都アレキサンドリア生まれの四十才を超えた男盛りの時期を迎え、絶頂の時期にいた。
そのガラブとのドッキ・シェラトンのカジノでの出会いが、モハマッドの人生にとって、決定的なものになるとは本人に解かるべくもなかった。