第七話 鹿覚

「平岡雄仁さんというのは、あなたでしょうか?」
品の好い顔をした老人が、今屋の玄関座敷に座って待っていた雄仁の前に現れた。
白昼夢を観ていた雄仁は、俄かに現実に戻ることは難しかい程、幻想というよりも幻覚症状に陥っていたのだ。
ボッとした表情でいる雄仁を見た一郎は、傍にいた番頭風の男に言いつけた。
「気つけ薬を持ってきなさい」
番頭風の男は、丁稚に指示をした。
深い湯飲み茶碗にお湯を入れて薬袋と一緒に、丁稚は正座している雄仁の膝下に差し出した
薬だとすぐにわかった雄仁は、疑う余地もなく湯飲み茶碗の水と、丁稚から与えられた薬を飲み干した。
みるみる内に雄仁の表情が変わり、3分もしない内に、死んでいた雄仁の目が蘇った。
「はい、そうです」
「わたしが、この店の主人の藤原一郎ですが、わたしの処に訪ねるように言われたそうですね?」
「はい、京都の大原というところに安曇野寺という荒れ果てた寺があるのですが、そこに雲西という住持がおられて、その方から平泉におられる藤原一郎さんに会うように指示を受けたのです」
「ああそうですか。雲西和尚は、わたしの義理の兄で、若い頃は大徳寺の総見院にいたのです。実はその頃、わたしも京都におりまして、兄と同じように坊主をしていました」
そのとき、雄仁の胸で再び囁きが起こった。
『鹿覚!鹿覚!鹿覚!』
雄仁は初めて聞く名前とは思えないものを感じたが、それは彼が一時とは云え金閣寺に身を寄せていた頃に聞いたことのある名前だと思った。
「鹿覚という名前を知りませんか?」
店の主人一郎に訊いてみた。
表情ひとつ変えずに一郎は、「わたしが京都で坊主をしていた頃の名前が鹿覚というのです」と答えた。
『やはり!』
ハナが死んでからの雄仁は、現実の世界と夢の世界というふたつの世界で生きているような感覚だった。
原因はわからないが、多分ハナの死に関係があると思っていた。
「どうやら、京都の雲西も、わたしも、そしていろいろな人間が、前世においては深い因縁の糸で結ばれていたようですね。特に、あなたと、あなたと同じ年の人とが、もの凄い宿業の糸で結ばれているのでしょう。もうその方とは出会われましたか?」
雄仁にとっては、まったく初耳のことばかりで、一郎の言っている意味を理解することすら困難だった。
「まあ、おいおいわかってくると思います。しばらくはここに逗留してください」
大原の安曇野寺で会った雲西には、親しみを感じず寧ろ反発を感じた雄仁だったが、鹿覚という名前だったと聞いた藤原一郎には、何とも言えない親しみを感じたのである。
「よろしくおねがいします」
雄仁は深々と頭を下げて、礼をした。
『今日は、まだ一度も幻覚症状がないなあ・・・』
少し寂しい気持ちの雄仁だった。