第四十九話 銀河泉の舞台

金閣寺の門の前に立った雄仁は、しばらく目を瞑っていた。
「ちょっとお客さん、拝観ですか?それとも何か他に・・・・・」
門の前に立っていたガードマンが声を掛けてきたのだ。
「貴様に、給料を支払うために、わざわざ拝観料を吊り上げている住持の鹿覚を呼んで来い!喝!」
突然の叫びにも似た大声に、太秦撮影所で切られ与三郎専門にアルバイトをしていたガードマンが、泡を吹いて卒倒した。
「これでいいのだ!」
まわりには観光客が大勢いたが、雄仁の呟くような、腹の底から浸みるような声に仰天している様子で、雄仁のうしろ姿にもの欲しそうな視線を投げかけていた。
『馬鹿な馬と鹿にも劣る大衆の人間どもめ!』
雄仁は背中の顔で舌をべろっと出しながら、境内に入って行った。
『例の夕佳亭(せっかてい)に雲西がおる筈だ!』
観光客は三重の舎利殿と鏡湖池しか金閣寺だと思っていない。
『馬鹿な馬と鹿にも劣る大衆の人間どもめ!』
鏡湖池の前で、何やらわからないものを前方に手翳しして訳のわからないことを、一斉にやっている阿呆な観光客に我慢の緒が切れた雄仁は、束々と寄って行き、ふたりの別々の観光客の袖を掴んだ。
「こちらに来るのじゃ!」
命令口調で言われると、からっきしだらし無いのが、馬鹿な馬と鹿にも劣る一般大衆の人間の特徴である。
金閣寺垣の横の石段を上って行った雄仁とふたりの観光客を、大勢の人間たちが下から見上げている。
「ここから、銀河泉に向かって飛び下りるのじゃ!」
舎利殿の裏側に、天から注がれていると言われる小さな滝が銀河泉と呼ばれている。
「そして、鏡湖池の真ん中にある島まで一気に飛び移るのじゃ!」
ふたりは呆っ気にとられて、雄仁の言うがままになっていた。
雄仁の狂気にも似た言動を夕佳亭から雲西が覗いている。
ひとりの観光客が叫んだ。
「飛んで、飛んで、飛んで・・・回って、回って、回るううう!」
まるで何十階建のビルの屋上から、隣の小さなビルの屋上に飛び移るような感覚の中で、人間の勇気に対する代償が支払われる。
隣の小さなビルの屋上は、畳一畳の大きさもないように見える。
そこへ富士山の頂上から飛び移るようで、真っ逆様の転落を髣髴させるほどの恐怖が襲って来る。
「飛んで、飛んで、飛んで・・・回って、回って、回るううう!」
と叫んだ観光客は、夢うつつの中にいるらしい。
いとも簡単に銀河泉目がけて飛び下りて、下から手を振っている。
「鹿め!お前も飛び下りるのじゃ!」
もうひとりの観光客は、いかにも小賢しい人間だった。
その人間にとっては、1メートルしか落差のない大きな大きな畳の上に飛び移ることさえ、断崖絶壁から飛び下りるほどの恐怖を覚えるらしい。
「何をしておるのじゃ!馬でも飛び下りたのに、鹿が飛び下りられん筈はなかろう!」
小賢しい人間の背中を蹴とばした。
「ああああ!とんで・・・ああああああ!」
凡そ鹿とも思えない悲鳴にも似た力のない叫び声をあげて、小賢しい人間は墜落した。
凡夫が、清水の舞台から飛び下りることが出来ないのは、その間にある目に見えない深淵に怖れを抱くからである。
たとえ1メートルでも100メートルでも、1センチでも彼らにとっては同じなのである。
目に見えない深淵が恐いのだ。
勇気を奮うと、1000メートルの谷底が見えても、目指した着地点に飛び下りることが出来る。
「わかったか!馬と鹿にも劣る大衆の人間どもめ!」
その様子を見ていた雲西は、褌の紐を締めなおすのだった。