第三十六話 藤原貞子

「平岡さん、ちょっと話があるんですが・・・」
今屋の主人・藤原一郎が母屋から離れにわざわざやって来て言った。
「はあ、何でしょうか?」
雄仁は警戒した。
「奥さんの郁子さんのことなんですが・・・」
ますます雄仁は警戒した。
「はあ、郁子が何か?」
その瞬間、離れに絶対来たことがないお升が突然やって来た。
「お升さん!」
雄仁がびっくりした様子でいると、お升は主人の一郎に向かって言った。
「あなた、どうして他人さんの問題に首を突っ込むんですか?」
今まで一度も見たことがない、お升の表情だった。
「だが・・・」
一郎は、お升の迫力にたじろいだ。
「だが、店の者たちが噂しているのに放っておけないだろう?」
一郎の言葉で雄仁は察しがついたが、彼は黙っていた。
「噂がどうしたって言うんです!わたしと、この方の噂だって今でもくすぶっているでしょうに・・・」
今屋の離れに居候の身で置いてもらえたのは、主人の一郎の計らいではなくて、お升のお陰であったことを雄仁はその時、わかったのだ。
雄仁にとって現実なのか、幻想なのか、今ではどうでもよかった。
郁子のことを愛しく想っている雄仁を十分に理解している様子で、幼い春王を愛した藤原貞子の生まれ変わりではないかと思われる程であった。
ただし、雄仁にとって不倶戴天の敵側の女御であったが。
また妹の厳子の生まれ変わりである郁子を庇うところが余計貞子らしく思われるのだった。
前世において敵同士であったものが、今世では味方同士になることは、よくあることだ。
郁子は義幹(よしもと)を連れて札幌の実家に戻っていて、その場に居合わせなかったのが、雄仁にとっては幸いだった。
「ご主人が、何を言われようとしているのか、よくわかっているつもりです」
雄仁は言葉少な気に、精一杯の返事をしたつもりでいたが、一郎は納得がいかないらしい。
「あんだ!ええ加減にするべえか!」
突然、お升の口調が変わった。
一郎は、お升の豹変ぶりに驚いた様子で、そのまま離れから母屋に帰ってしまった。
「あんだ!わるがっだなあ!気いわるするなでなあ!」
お升の優しい表情を久しぶりに見た雄仁の首筋に稲妻が走るのだったが、お升でさえ、それに気づいていなかった。
その瞬間、今屋の屋根の上を、例の二羽の烏が鳴きながら飛んでいた。
「カア、カア、カア!」
思わず雄仁の口を塞ごうとした、お升が吹き出した。
「あんだ!白い糞の烏だ!久しぶりだなあ!」