第二十六話 死への回帰

小樽に着いた二人は、呉服屋・越中屋の前に立っていた。
有名な小樽運河は小樽港から一本陸地に入ったところにあるが、更に一本平行した道路に面して老舗の越中屋がある。
雄仁は以前越中屋を訪問したことがあった。
「小樽で知っているところはここだけだ!」
不安そうに喋る雄仁だったが、郁子は平然としていた。
「もう都屋や蝦夷屋のことは忘れましょう!」
人間は追い込まれると弱い生き物で、危険なことがわかっていても、つい走性に頼ってしまう。
源義経が、兄頼朝が差し向けた追討軍から逃れて平泉の藤原秀衡を頼ったのは、明らかに人間も動物としての走性があることを証明している。
鮭が川上に命を掛けて戻って行くのも、己の寄って立った処に戻る走性故である。
誕生した場所に戻る、この走性という回帰性は、動物のみならず宇宙に存在するすべてのものが持っている掟である。
そして戻るところは死に場所でもある。
死にたくなければ、走性の掟に従ってはならない。
人間だけが死を知った。
そして走性も意識から消えていった。
死を意識しないから走性がある。
死を意識したら走性は消滅する。
「だめよ、わたしたちは一旦死んだ身にならなければ・・・」
女である郁子は直感でわかっていたのだが、男である雄仁の知性では到底理解できない掟である。
悟った人物は圧倒的に男が多いが、悟るということは男と女の境界がなくなることであり、男が一人悟ると、女も一人悟らなければ均整がとれない。
男は自慢気に悟ったことを言うが、女は黙って悟るから目立たないだけのことである。
越中屋をしばらく見張っていた雄仁の前をパトロールカーが走って行き、越中屋の前で停まった。
「何だ!あれは!」
パトロールカーの中から都屋の主人・橿原公威と蝦夷屋の主人・源春雄が降りてきたのである。
「だから言ったでしょう!安全を求めれば危険の中に入っていくことになるのよ!」
唖然としている雄仁の腕を掴んで、郁子は近くのホテルまでやってきた。
「とりあえず、ここに泊まりましょう」
橿原公威の姿を見たショックで雄仁は思考能力を完全に失っている様子だったが、気丈夫な郁子が踏んばっていた。
しかし弱り目に祟り目とはこのことだ。
「おい!お前、なんばするちょか!」
ホテルの前に立っていたチンピラ風の男が、雄仁に向かって喚いた。
郁子は何ごとが起きたのか、まるでわからない。
そのチンピラは急に雄仁の胸ぐらを掴まえて殴りかかった。
もう一人いたチンピラは郁子の腕を掴んでニタッと笑って言った。
「おまはん、いい女じゃのう!」
『やめろ!』
雄仁は叫んだ。
獣に弄ばれている郁子は、まるで蝋人形のような無表情でいる。
『やめろ!』
『お前、ちょっと静かにしちょれ!』
雄仁の目の前で、「ピカッ」と光った。
雄仁の下半身に電気が走った。
痛みはなかったが、足下から流れる音がする。
徐に視線を下に向けると、薄汚れた床の上にどす黒い血が拡がっている。
『自分の血だ!』
『死ぬ!』
『郁子!』
・・・・。