第二話 蝦夷

札幌一の呉服商・蝦夷屋に滞留して既に一ヶ月が過ぎていた。
雄仁が勤めている京都の呉服問屋「都屋」のお得意である蝦夷屋には、三人の娘がいて、雄仁は彼女らのお気に入りだった。
徳子、和子、そして郁子の三人である。
「雄仁さん、雪祭りに行きません?」
郁子は、暇を持て余していた。
「雄仁さん!」
郁子が何度言っても、雄仁は知らん振りをしている。
蝦夷屋の主人から都屋の主人に電話が掛かってきた。
「もし、もし。札幌の源ですが、都屋さん?」
「これはまた、蝦夷屋さんじゃないですか!」
都屋第23代目・都屋長衛門は、元大学の教授をしていた変わり種である。
都屋第22代目長衛門の急死で、仕方なく大学をやめて京都の実家に戻ってきたものの、近江商人のやり口に馴染めず、東京流の商いを目指していた。
そこへ、出家の身に辟易としていた雄仁と出会い、お互い意気投合して、とんとん拍子で都屋に勤めることになった。
「平岡さんを、しばらくお借りできないでしょうか?」
一瞬躊躇した長衛門だったが、都屋の大得意では三本の指に入る蝦夷屋の主人からの依頼だ。
そう簡単に断るわけにはいかない。
雄仁は札幌にやって来た事情を思い起こしていた。
「雄仁さん!」
やっと現実の世界に戻った雄仁の手を握った郁子は、念を押すように言った。
「雪祭りのあと、薄野のホテルで食事しましょう!」
徳子と和子が、雄仁と一緒に店に出ている中でのやりとりだった。
雄仁はふたりの様子を気にかけながらも、郁子の言うがままにした。
「ねえ!雄仁さんと一緒に出かけてもいいでしょう?」
天真爛漫な郁子に、ふたりの娘たちも言われるままだった。
札幌公園に着いた雄仁は、真っ白な粉雪でつくられた作品を見物するものだと思っていたが、雄仁の手を引っ張る徳子は、まったくそのようなものに興味を示さなかった。
「あのホテルに行きましょう?」
郁子が指さしたのは、いかがわしいネオンが点灯したホテルだった。
「雄仁さん、こっちにいらっしゃい!」
和子が誘う。
その傍には徳子もいて、手招きしている。
狭いホテルの一室で、雄仁は三人の女性を相手にしていた。
所謂現実の世界では郁子とふたりだけなのだが、妄想の世界では他の二人を相手にしているのだ。
所謂現実の世界にいる郁子は、雄仁が徳子と和子の二人を相手にしていることに気づいているのだが、まったく意に介していない風で、時には二人を相手にしている雄仁の姿を観ることで、自分の欲情を高ぶらせている気配すら感じるのだ。
「雄仁さんは、わたしたちの中で誰が一番気に入ったの?」
雪祭りの観光客でいっぱいになったホテルのレストランで、郁子は訊いてきた。
『誰がって・・・君しか相手にしていなかったじゃないか?』
心の中で呟きながら、その周囲で騒々しい、もうひとりの自分が囁いてきた。
『やはりハナが一番だ!』
顔色が変わったのを、勘の鋭い郁子は見逃さなかった。
「やっぱり、ハナさんて方が一番なのね・・・」
郁子の口からハナの名前が出てきたのだ。
『やはりハナが一番だ!』
と呟いた、もうひとりの自分が仰天した。
そのとき、冷静沈着な雄仁が囁いた。
『無意識の中で、ハナの名前を口走っていたのだ』
翌朝、雄仁は蝦夷屋の誰にも挨拶せずに、京都に向かう汽車に乗っていた。