第十七話 殺意

平岡雄仁は、都屋の主人である橿原公威の養子として、蝦夷屋に婿入りすることを決心した。
「君はこれから橿原雄仁だからね」
鳥肌がたつほど気持ちの悪い想いの雄仁だったが、『もうちょっとの辛抱で、この男から解放されるんだ!』と思うと、拳を握りしめて我慢するのだった。
握りしめる拳の上に、公威の女のような柔らかい手が重なってきた。
「わかるだろう?もう君の手を触ることもできなくなるんだ・・・。わかるだろう?」
公威の目はもう完全に空ろな状態になっている。
『これは危険な状態だ!』
危険を察知した雄仁は、すかさず立ち上がろうとした。
雄仁の手を摩るように弄んでいた公威の体が、その勢いで仰け反った。
「わあ!何をするんだ!」
「すみません!」
雄仁は叫びながら、公威の体の上を飛び越えようとしたが、間違えて公威の腹の上を踏みつけてしまった。
「ぎゃあ!」
更に、もう一方の足が、公威の股座を思い切り踏み潰した。
「ううううう!」
呻き声をあげて公威は失神してしまった。
「社長!大丈夫ですか!」
雄仁は叫びながら、都屋の主人の顔に鉄拳を喰わせたが、「うんぎゅう!」と擬声音を発しただけで、都屋の主人は仰向けに倒れてしまった。
「大変だ!社長が!」
大声で雄仁は叫んだ。
公威の母親が、部屋に飛んできた。
「どないしたんえ!一体!」
息子の公威が畳の上に、鼻血を出して大の字になって気絶している姿を見た母親は、気が動天してしまって、どうしていいのかわからない。
「雄仁はん、はよう救急車を呼んで!」
「はい、わかりました!」
雄仁はそう言って、部屋をやっと抜け出すことに成功した。
『春王は二人も要らない、一人で十分だ!』
そう呟くと、救急車も呼ばずに、百万遍の交差点を渡って、京都大学に隣接している吉田神社に向かった。
ハナと会話をする格好の場所が、吉田神社の境内にある森の中だった。
嘗て、源春雄と出会ったのも、この森だった。
ハナがはじめて雄仁に会うため木次から京都にやって来て一人で散策したのも吉田神社の森だった。
そしてその後、仙洞御所での最後の抱擁をして別れたことを、雄仁は思い出したかった。
『ハナ!ハナ!ハナ!』
雄仁は涙を流しながら、ハナを呼んだ。
しかしハナからの囁きはなかった。
「ポアン、ポアン、ポアン・・・」
そのとき、救急車がサイレンを慌ただしく鳴らしながら、吉田神社の前の丸太町通りを東に向かって走り去っていった。
『ハナ!ハナ!ハナ!』
雄仁は、救急車で運ばれたのが橿原公威であることなど、どうでもよかったのだ。
『ハナ!ハナ!ハナ!・・・』