第百五十話 Diplomat

雷は、積乱雲という急激な水蒸気の上昇によって、地面との間で強力な磁気が発生した結果生じる。
プラスとマイナスの差が大きければ大きいほど、強力な雷が発生する。
平岡雄仁と藤原たけしは、雷を生む強烈なプラスとマイナスであった。
五郎と郁子が京都拘置所に収監されている藤原たけしを引受けに行った時には、既に強烈なプラスとマイナスの火花は散っていた。
地上数千メートルまで、ほんの数時間で急上昇する積乱雲は、日本の臍を千二百年間務めあげた京都という町に発生した。
人間の歴史は、目に見えぬ太い糸で繋がっていることを、我々は未だに気づいていない。
ユーラシア大陸の東の端と西の端で起こっていることに因果関係があることを、我々人間だけが気づかずに、西洋文明と東洋文明との違いだけで片づけてしまう。
地平線上で起こっていることは、時間という軸上で俯瞰すれば、同じ世界の出来事であり、因果関係があるのだ。
更に、時間の軸と地平の軸を共有する場で起こっていることは、垂直の虚時間軸上で鳥瞰すれば、これまた同じ世界の出来事であり、因果関係があるのだ。
六百年前にイタリア半島で起こった出来事と、同じ時間という軸上での日本列島で起こった出来事との間に因果関係があるのだ。
更に、六百年前という時間の軸と、イタリア半島及び日本列島という地平の軸を共有する場で起こったことが、垂直の虚時間軸上の京都というブラックホールの場で因果関係が発生しようとしていた。
京都という町が因果の地平線になっているのだ。
まさにEvent Horizon(因果の地平線)だ。
因果の地平線が、雷として発生しようとしているのであり、藤原たけしという強烈なプラスの磁気と、平岡雄仁という強烈なマイナスの磁気との邂逅によって発生しようとしているのだった。
パスティール・ボッチェリの「カスケード」が、地平軸、時間軸、更に虚時間軸を貫く強力な座標軸であり、「カスケード(上)」が地平軸、「カスケード(中)」が時間軸、「カスケード(下)」が虚時間軸の役割を果たしていたのである。
「何だって!すでに釈放したのか?」
五郎は、拘置所長に向かって罵倒した。
「何の根拠を以って釈放したのか?」
拘置所長は怯えながら、震える声で喉を鳴らしながらやっと答えた。
「身元引受人だと言われたので・・・・・・」
五郎は真っ赤な顔をして続けた。
「その身元引受人は書類を持参していたかね?」
『平岡雄仁がそんな小細工をするわけがない・・・』
同じ次元のふたりの他人と話をすることに、ふと気づいた五郎は、怒りで興奮する頭とは別のところで歓喜していた。
しかし、それは一瞬の出来事で、人間はこういった歓喜の一瞥の機会と背中合わせで生きているのだが、気づくことは滅多にない。
「いえ、何も・・・」
愚かに生きる人間の生の言葉が、五郎を所謂現実に引き戻した。
こうして人間は、歓喜の一瞥を取り逃がして生きてゆく。
「君は、一体・・・」
その時、小椋亨が息を切らしてやって来た。
その傍には、容子とその娘祥子もいた。
森五郎と藤原郁子。
小椋亨と容子・祥子。
日本の歴史の表舞台を彩ってきたふたつの血が、肉体を変えて、意識を変えて、一堂に会した瞬間であった。
ただ、その場に居合わせるべき主役のふたりが、地平軸も時間軸も更には虚時間軸をも超えた世界に旅立ってしまった結果、一堂に会した場は、ブラックホールに落ち込んだ巨大な穴のようで、まるでぽっかりと深淵の谷を眺める断崖絶壁を髣髴させるものだった。
まさしく強烈な雷が落ちた穴でもあった。
「平岡雄仁から何か連絡があったのかい?」
五郎が亨に訊いた。
「『今、空港に藤原たけしと一緒にいる。しばらくは日本から離れる』というメッセージだけが、留守電に残っていて、それに気がついて飛んで来たんだが・・・」
五郎は容子と祥子の顔を見た。
亨は郁子の顔を見た。
「15時30分発ミラノ行、アリタリア航空第1便に搭乗されるお客様は、出国手続きを済ませ、39番ゲートにおこしください。まもなく搭乗開始されます」
観光旅行に出かける日本人ツアー客でいっぱいになっている出国窓口を横目に見ながら、ふたりの男が赤いパスポートを手に持ちながら、フリーパスで出国していった。
その赤いパスポートには、「Diplomat Passport」と書かれてあった。

(小説)「夢の中の眠り」(VOLII)第一部 −終わり−