第百三十五話 カロリング・ルネッサンス

容子が京都大学文学部に入学した時に、聞いたこともない哲学書を、父の卓から祝いに貰った。
ドイツ文学、特にシラーに興味を持っていた容子は、イタリア人の哲学者がいることを、父から聞かされてはじめて知ったのだ。
イタリア、ドイツ、フランスはラテン語系を母国語とする、兄弟同士の国である。
ドイツは東フランク王国から誕生し、フランスは西フランク王国から誕生した国に対し、イタリアはローマ帝国とバチカン・カトリックの本山があるイタリア・ロレーヌが発展してできた国であり、ドイツ、フランスに対していわば長男に当たる国だ。
ギリシャ文明を正統に引き継ぐと自負するローマ帝国にとって、ギリシャ哲学を正統に引き継ぐのも自分たちであるという自負心が強い。
近代哲学がフランスとドイツで興ったとする世界史に異論を唱える筆頭が、ボッチェリの「カスケード」なのだ。
真のルネッサンスは東西ユーラシア大陸を貫くもので、キリスト教だけの世界でなく、イスラム世界やオリエント世界からの影響も受けたと主張するルネッサンス派の一派があった。
七世紀前半に、ムハンマドがアラーの神の教えを説きイスラム教が興ると、アラビア民族はアラビア半島を一気に統一した。
コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を首都にしていた東ローマ帝国の打撃は大きく、必死の体で首都・コンスタンチノープルを守った。
進路をアフリカの地中海沿岸に変えたイスラム勢力は、711年地中海を渡ってスペインに入り、ゲルマン人の国・西ゴート王国を倒した。
そしてスペインとフランスを分断するピレネー山脈を越えてガリア地方に侵出してきた。
732年、中部フランスのトゥールとポアティエの間で戦闘が繰り広げられた。
この時、ゲルマン人を組織化して戦ったのがフランク王国のカロリング家のカール・マルテルである。
東地中海の一部を除いて、西地中海は完全にイスラム勢力に制圧されてしまった。
イタリア半島の西ローマ・カトリック教会は、カロリング家をローマ教皇の守護者として認め、フランク王国カロリング朝の成立を支持し、800年12月25日クリスマスの日に、カロリング朝「二代目」のシャルル・マーニュ(カール大帝)は西ローマ帝国の皇帝位を、ローマ教皇レオ三世からサン・ピエトロ寺院で拝命された。
ヨーロッパの誕生である。
カール大帝が814年に没すると、ゲルマン古来の分割相続法が頭をもたげ、激しい兄弟争いが起こった。
834年、ヴェルダン条約によって、再興された西ローマ帝国は、イタリア・ロレーヌ、東フランク、西フランクに三分され、870年のメルセン条約で、イタリア・ロレーヌがイタリア、東フランクがドイツ、西フランクがフランスと、それぞれの国の原形が出来あがっていくのである。
ローマ系人種とゲルマン系人種の混血が、やがてイタリア人、ドイツ人、フランス人となっていくのだ。
イタリアのフィレンツェで興ったルネッサンスに対抗するように、アーヘン(現在のベルギーからドイツの町)を中心に、カロリング・ルネッサンスと呼ばれた文化・芸術が花咲いた。
ベルギーの港町ブルージュのノートルダム寺院にあるルーベンスの描いた、キリスト十字架刑の二枚の絵は特に有名である。
パスティール・ボッチェリが生まれたイタリア・トスカーナ地方のシエナという町は、ルネッサンス発祥の町フィレンツェに何かと対抗して来た。
その代表格が、ジョット・デ・ボンドーネとアンブロジオ・ロレンツェッティだ。
彼らこそ、ルネッサンスの生みの親と言われている画家たちで、彼らの画風には、イスラム文化やオリエント文明の影響を受けていることが如実に表れている。
パスティ−ルの生まれ故郷であるシエナをルネッサンス発祥の地とするイタリア・ゴシック・シエナ派と呼ばれる巨匠たちである。
パスティール・ボッチェリは葡萄園の農民であったが、これら巨匠たちの影響を父や祖父の代から受けていたのだ。
フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に掲げられているジョット・デ・ボンドーネの、「聖フランチェスコの死」は、ジョットが生涯作としていた、「聖フランチェスコ伝」の中でも、オリエント文明の影響を色濃く受けた一際ユニークな作品である。