第百三十三話 Cascade 12 偽善

「容子、お前ここで何をしてるんだ!」
救急車の後を追いかけてきた五郎と亨が、救急病棟の入り口で車から降りた時、正面玄関から、容子が飛び出してきたのだ。
「あなたこそ、ここで?」
突嗟の機転では、亨は容子の足下にも及ばない。
逆に切り返されて亨は戸惑った。
「同じ事件の原告側と被告側の立場での、合同捜査ですよ」
横から、五郎が助け船を出した。
「ご、・・森さん・・・」
百戦練磨の容子も、亨が五郎と一緒にいることに仰天したようだ。
「そうだよ・・・平岡雄仁がまた事件を起こしたんだ・・・」
亨は口をもごもごさせながら容子に言った。
ほんの数分のうちに、容子は心の姿勢を整えたようである。
「わたしも、父の依頼で榊原教授に会いに来たのよ」
完全に落ち着いた様子で淡々と喋る容子の態度に圧倒された亨も、必死で対抗しようとする。
「榊原教授って、一体!誰だい?」
「一体!」という言葉を使う時の日本人の心理は捻れている。
"on earth(一体!)"という言葉を使う時のイギリス人の心理は疑惑の念で溢れている。
"fucking(一体!)"という言葉を使う時のアメリカ人の心理は怒りの念で溢れている。
言葉の意味としては同じでも、国民性が違うと、ニュアンスはまったく違ってくるものだ。
不意に訊かれて容子もたじろいだ。
容子の父の小椋卓から依頼された用事というのが、「カスケード(中)」の133章の解釈を榊原教授にしてもらうことだった。
予備知識を事前に頭に叩き込んでおくために読んでいたのだが、救急車のサイレンで、胸騒ぎがして飛び出してきたのだ。
「哲学書の解釈依頼なの・・・。わたしにはさっぱりわからない世界だから・・・・」
容子は嘘をついているつもりはなくて、事実、父の卓から依頼を受けた時も、その意図さえも訊かないで、安易に受けてしまったのだ。
「お前の娘の祥子に関わることだから・・・」という父が最後に言った言葉が引っ掛かっていた。
容子が言った哲学書という言葉だけで、五郎は、「カスケード」を予感していた。
五郎の手許には、「カスケード」の(上)、(中)、(下)が揃っていた。
「哲学書というのは、この本のことじゃないですか?」
五郎は三冊の本を容子に見せた。
『これは一体どういうことなのだろう?』
五郎の言う通りなのだが、安易に肯定するわけにはいかないと直感で思ったからだ。
「さあ、どんな哲学書なのか、素人のわたしには、さっぱり雲を掴むような話で・・・」
そう言いながら、五郎の顔を久しぶりに見た容子は、32年前のことを思い出していた。
『思い出したわ!』
全身から、『ざああ・・・』と言う音を発して冷や汗が吹き出しているのが、わかる容子だった。
五郎は容子の表情の変化を逃さなかった。
伊達に検事の仕事を25年もやってはいない。
相手の表情の変化ひとつで、その心的変化を読み取れるようになるのが、検事の職業病である。
五郎は三冊のうちのひとつを無造作に開けて読み出した。

“Cascade 12 偽善
偽善者の人々のパン種に注意しなさい。
覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。
有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。
ある金持ちの畑が豊作だった。
「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」
「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまうことで、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができる。そしてひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」
愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、一体だれのものになるのか。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者は不幸である”

容子の冷や汗は、止まるところを知らなかった。