第百三十二話 Cascade 133 殺意

郁子を乗せた救急車は、烏丸通りに面している京都府立病院に向かっていた。
その頃、京都府立病院の正面玄関からひとりの女性が受付に向かって歩いていた。
「あの、産婦人科にお願いしたいのですが・・・」
受付係りの女が一瞥してから、事務的な言葉で言った。
「お名前と、紹介状は?」
白い手袋を外して、その女性はハンドバッグから、封筒を取り出し、受付係りの女の前のカウンターに差し出した。
封筒から、薄い一枚の紙面を引き抜いた受付係りの女は、意地悪い表情をしながら、大きな声で言う。
「小椋卓さんからの紹介状で、あなたは小椋容子さんですね?おふたりのご関係は?」
真っ白な羽つきの帽子を深く被っていた女性は、癪に障った様子で、徐に帽子を脱ぎ取り、髪の毛をあおりながら返事をする。
「夫婦よ!」
受付係りは、まだ喰い下がる。
「95才のご主人ですか?」
外見からは、せいぜい40手前の女性にしか見えない外来客を、客とも思わない態度で接する受付係りの女も、40前後の誰が見ても売りそびれた女だ。
しかし、外来客の女は実は54才で、受付係りの女は実は30才だ。
母娘でも通用する年重の違いでありながら、女同士の火花が散る。
「堕胎手術の申し込みに来たんじゃないわよ!」
堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。
「速く、産婦人科の榊原部長さんを呼んでよ!」
「榊原」の名前を聞いた受付係りの女は、慌てて電話の受話器を上げて、プッシュボタンを押した。
「あのう、玄関受付ですが、小椋容子さまが榊原部長さんに面会です」
受話器の向こう側では、何やら騒がしい様子で、受付係りの女は、相手の顔も見えないのに、愛想笑いをして話を聞いていた。
「わかりました!はい!」
頭をぺこぺこ下げながら、受話器を下ろした女は、急に直立して、泣きそうな表情で客に言った。
「榊原部長がじきじきお迎えに、ここまで下りて来られるそうです」
受付カウンターの前の長いソファーに腰をかけたその女性は、ハンドバッグから一冊の本を抜き出した。
その本の題名は、「カスケード(中)」だった。
徐に開いた147ページは、「(Cascade 133)殺意」という章である。

“マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集して言った。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。
その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
この日から、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
それでイエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。
多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からイェルサレムへ上った。
彼らはイエスを探し、神殿の境内で互いに言った。
「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか」
祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。
イエスを逮捕するためである”

その時、突然大きなサイレンと共に救急車が正面玄関の前を通り過ぎて行った。
嫌な予感がしたのか、ソファーに座って本を読んでいた女性が、急に立ち上がって、救急車の方に走り出した。