第百二十七話 「カスケード」誕生秘話

ミラノ公、ルドヴィーコ・イル・モーロがパスティールに言った。
「レオナルドに、我が娘の夫で、傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァを弔うために、スフォルツァ家の菩提所サンタマリア・デレ・グラツィエ教会の食堂に、イエスの最後の過ぎ越しの食事の絵を描いてもらうことにした」
パスティールはレオナルドから事前に聞いていたことを思い出していた。
「パスティール、君にもミラノ公から依頼があると思うよ」
レオナルドは憂鬱そうな表情で言う。
「君は、もうフィレンツェを見放して、ローマに行くのかい?」
レオナルドはフィレンツェとピサの中間にあるヴィンチ村で生まれた。
パスティールが生まれたシエナの真北の町で、メディチ家に支援を受ける前から、お互いに知己の関係であり、レオナルドが悩んでいることを知っていた。
レオナルドのライバル、ミケランジェロ・ヴォナローティーは、レオナルドが「最後の晩餐」を完成した直後から、イエスが十字架から下ろされ、聖母マリアに抱き抱えられた彫刻像・ピエタの創作を開始して、1年余りで完成させたのだ。
「あんな絵なら、そこいらの下人でも描ける。俺は彫刻でイエスとマリアを表現してみせる!」
ミケランジェロも、メディチ家のロレンツォが死んだ後の当主ピエロの支援を受けていたのだが、サヴォナローラの圧力で、ピエロはミケランジェロの支援を中止したのだ。
ミケランジェロのレオナルドに対する嫉妬心が、一層ライバル心を掻き立てたのである。
「いや、フィレンツェから離れないよ」
レオナルドの拠点は飽くまでヴィンチ村であったが、後年、フィレンツェの名門ジョコンダ家当主の妻リザの肖像画の製作を要請され、1502年、正式にフィレンツェに移るまでは、ヴィンチ村で隠棲生活をしていた。
隠棲生活する理由があったからで、パスティールはその理由を承知していた。
ミケランジェロのレオナルドに対する反発心の大きな理由も、ここに潜んでいた。
「どうして、僕が、ミラノ公から呼び出されるのかい?」
レオナルドはしばらく沈黙を保っていたが、徐に口を開いた。
「ヴァチカンに対するアンチテーゼだよ?」
パスティールはレオナルドの意図を計りかねていた。
「宗教に対して哲学で応酬したいのではないかと思うのだが・・・」
「僕は哲学者ではないし、ソクラテスやプラトンの本を読んだこともないのに、何故、僕が哲学なんだい?」
訳がわからなかった。
レオナルドは徐に、棚に置いてあった分厚い聖書をテーブルの上に置いて、栞の挟んであるページを開き、読み始めた。

“一人の男が、イエスに近寄って来て言った。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか?」
イエスは言われた。
「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」
男が、「どの掟ですか?」と尋ねると、イエスは言われた。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」
そこで、この青年は言った。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか?」
イエスは言われた。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。
たくさんの財産を持っていたからだ。
イエスは弟子たちに言われた。
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
弟子たちはこれを聞いて、非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
するとペテロがイエスに言った。
「この通り、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか?」
イエスは一同に言われた。
「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた物は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる者は先になる」
イエスは続けた。
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、葡萄園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一ディナールの約束で、労働者を葡萄園に送った。また九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちも葡萄園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。
主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか?』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。
主人は彼らに、『あなたたちも葡萄園に行きなさい』と言った。
夕方になって、葡萄園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで、順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一ディナールずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多く貰えるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一ディナールずつであった。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。丸一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』
主人はその一人に答えた。
『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一ディナールの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、わたしの気前のよさを妬むのか?』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」”
レオナルドが聖書を読み終わると、パスティールは微笑んで言った。
「わかったよ、ミラノ公に会ってみよう」
パスティールは、ミラノ公、ルドヴィーコ・イル・モーロの話を素直に聞いていた。