第百二十四話 ずれの妙

藤原郁子は雄仁に銀閣寺で抱かれながらも、五郎のことを想っていた。
小椋容子も亨に筍亭で抱かれながらも、五郎のことを想っていた。
時空を超えての、五郎とふたりの女の確執であった。
銀閣寺の山門で雄仁と別れた郁子は、哲学の道を歩いていた。
『お前の悪い癖が出てきたな!』
道端に咲いたタンポポの花が自分に囁いているような錯覚を持った郁子は、小さな一輪のタンポポを摘んだ。
花弁が小さなスピーカーの役目をして、中心の雌蕊から、囁いてくる。
『お前の悪い癖が出てきたな!』
雌蕊に屯する白い絨毯状になった雄蕊がスクリーンになって、長い白い髭の老人の姿が映っている。
『見憶えのある老人だ!』
郁子は、突嗟に、タンポポの花を、左手にしっかり持っていた本を開いて挟み込んだ。
百万遍の交差点にやって来たところで、郁子は都屋の看板に気がついた。
五郎と別れた場所だった。
雄仁が都屋から出て来たために、五郎と別れる羽目になった場所だ。
ふと郁子は思う。
『あのとき、あの男が、あの店から出て来なかったら、一緒に哲学の道を歩き、一緒に古書籍店を探索し、一緒に『カスケード』を見つけていたかも知れない・・・』
そう思うと、首筋に稲妻が走ったような、奇妙な衝動が起こり、居ても立ってもいられなくなった。
郁子は呆然として、都屋の前で佇んでいた。
その頃、銀閣寺の山門で郁子と別れた雄仁は、甘酸っぱい余韻に浸りながら、少し遅れて哲学の道を歩いていた。
左側は今出川通りで、ひっきりなしに車が走り去っていく。
右側は、古書籍店が次から次へと、視界からゆっくりと去っていく。
『あの女が言っていた「カスケード」という本がひょっとしたら・・・』
甘酸っぱい余韻が、日頃現実と信じ込んでいる世界を、まるでぼやけた映像のように思わせる。
その映像の中で、はっきりした箇所があった。
雄仁は無意識の内に、その箇所に飛び移った。
「いらっしゃい!」
郁子が「カスケード」を買い求めた店であった。
「『カスケード』という本を探しているんだが・・・」
不気味な様子の雄仁に、店主の老人は、戦慄を覚えた。
郁子が「カスケード(上)」を買っていった後、店主は棚を整理し直して、「カスケード(中)」と「カスケード(下)」を見つけたのである。
郁子が再び買いにくることを予想してのことだった。
店主の老人は、80才を優に越しているのに、郁子の怪しい魅力の虜になっていたのである。
「そんな本は、うちにはおまへん!」
不愛想に答えた老人の目の前に、「カスケード(中)」と「カスケード(下)」が積んであった。
雄仁は、ニタッと笑って言った。
「それじゃ、これを貰おう」
雄仁は、老人の目の前に積んであった二冊の本を取り上げ、お金も払わずに店を出ていった。
店主の老人も唖然として、ただ黙っているだけだった。
店を出た雄仁は、もうすっかり現実の世界に戻っていた。
郁子が歩んだ哲学の道を、雄仁も百万遍に向かって進んだ。
雄仁には、道端のタンポポも囁かず、ただ不気味なその姿を眺めるだけだった。
百万遍の交差点に着いた雄仁は、都屋の前で、呆然としている郁子を見つけた。
その瞬間(とき)、筍亭を出たふたりは、五郎の運転する車で、百万遍の交差点にやってきた。
車の中から、都屋の前に立っている郁子と、郁子に迫ってくる雄仁の姿を見た五郎と亨が思わず目を合わせた。
奇しくも、四次元の時空間を、『今、ここ』で切った、現実というケーキの断面が顕れ、そのケーキの中味の中心に、「カスケード(上)(中)(下)」が勢揃いしたのである。