第百二十二話 五分の位置

「わたしはボッチェリの世界に魅力を感じているの・・・」
『そうだった!学生時代に「マルクス研究会」で聞いたことがあると思っていたボッチェリの名は、容子が俺に言ったものだったんだ!一体それが、藤原郁子、そして藤原たけしとどんな関わりがあると言うんだろう・・・』
五郎は亨の顔をしげしげと眺めるだけだった。
その瞬間、五郎の顔面が蒼白になった。
「どうしたんだ?何処か具合が悪いのか?」
亨は五郎の表情を伺うように見入った。
責める側と守る側の立場の違いこそあれ、法的代弁人のプロフェッショナルであるふたりだ、やすやすと敵側に悟られるようなへまはしない。
亨は、「カスケード」について隠しごとをしている五郎の心の内を読み切ろうとする。
五郎は、これからの水面下でのし烈な戦いを勝ち抜くための切り札になるであろう、「カスケード」というカードを何が何でも亨に渡したくない。
しかし、肉体は正直なものである。
特に顔の表情は隠し切れない。
「竹林の間」から窓外を眺めると、水の音がする。
人造なのか、自然なのか、わからない小さな滝が視界に入って来た。
ふたりは暫く、滝の様子に見入っている。
直観の働かない亨は、熟考している。
思索の働かない五郎は、思い巡らす。
『「カスケード」は小さな滝の意味だ!』
亨は、ひとつのヒントを導いた。
『「カスケード」は容子のことだ!』
五郎は、ひとつの確信を得た。
『「カスケード」は女のことだ!』
ふたりは、別の切り口から、同じ結論を出した。
亨にとっての女とは、容子ひとりだけだが、五郎にとっての女とは掃いて捨てるほどいた。
この違いは、人生の幅に大きな差を生む。
日本の法曹界が極めて閉鎖社会であるのに対し、欧米の法曹界は完全な開放社会である。
議員選挙と同じ派手さ加減で、国民に自己をアピールするのが、欧米の法曹界だ。
日本という閉鎖社会では、議員選挙の際にドサクサに紛れて、裁判官の信任選挙をするが、肝心の投票民が、まったくそのことを知らないで、投票場に行ってはじめて知る場合が圧倒的に多い。
亨は、まさに日本的閉鎖社会が生んだ弁護士であり、殆どの弁護士が彼のようなタイプで占められている。
五郎は、そんな社会の中では、突然変異型である。
そのまったく正反対のタイプのふたりの法的代弁人が、「カスケード」という謎めいた哲学書のタイトルから、女性という答えを導き出したのである。
『藤原郁子の陰には、平岡雄仁と藤原たけしというふたりの男が潜んでいる。しかも嵐山の堰で自殺した桜という女性も関わっている・・・・』
五郎が「カスケード」という言葉から、女性の存在を感じ取ったのは、それなりの根拠があったが、亨の場合は容子の存在しかなかった。
『自殺した桜という女が、「カスケード」の震源地のようだなあ・・・』
五郎が思い詰めている様子を見ていた亨は、ますます「カスケード」の意味を知りたいと思った。
「この板に書いてある言葉の意味を知っているんじゃないのかい?」
亨は五郎に訊いてみた。
さすがに今度は黙殺するわけにはいかなかった。
「藤原郁子が、『カスケード』という本を探しているようだった。もう既に手に入れたかも知れないがね・・・」
五郎は事実を正直に伝えた。
検事という職業柄、犯罪容疑者を詰問する際の、お互いのイロハだった。
取り調べる側も、取り調べられる側にとっても、結局は事実を正直に相手に伝えることが、自己にとって最良の結果を生み出すことを熟知していた。
「藤原郁子が?」
亨は怪訝な表情だった。
「都屋の女将撲殺事件で、平岡雄仁に逮捕状が出ていることは知っているね?」
五郎の当たり前の質問にも、亨は真摯に頷いた。
「この事件を担当することになったが、正直言って平岡雄仁が犯人だとは到底思われない・・・」
検事と弁護士が密会することは御法度であり、事件の原告側と被告側に立って法的代弁人になる者同士が交わす会話ではない。
「検察側の責任者として逮捕状を発行していながら、それはないだろう?」
ふたりはそれぞれの立場を完全に無視していることを認識している。
「まあ、司法当局と言っても人間の集団のやることだから、過ちもある・・・」
苦虫を噛み潰したような表情をして喋る五郎を見て、亨は思い出した。
「亨、お前容子に何をしたんだ!泥棒猫のようなことをしやがって!勝手に俺のねずみを盗むなんて・・・」
今にも亨を殴らんばかりの怒り様だった。
亨は心の中で五郎に謝っていたのだが、「俺のねずみ」という五郎の言葉で居直りの気持ちが湧いたのである。
『こいつにとっては、容子も俺もねずみに過ぎないということか・・・』
沸々と湧きあがってくる怒りを、亨は抑えることが出来ない。
「別にお前に文句を言われる筋合いはないだろう!彼女は、お前とは何もないとはっきり言ってたよ!お前にとっては畜生同然の二匹のねずみが出石(いずし)という蕎麦屋で・・・」
豆鉄砲を喰った鳩のような目をして、五郎は黙っていた。
大学生だった頃の精神構造とは、まったく掛け離れたふたりの心境は、時間と空間の世界を断絶する感がする。
「藤原たけしに面会した帰りの郁子に偶然会い、『カスケード』という本のことを彼女から訊ねられた。それで、『マルクス研究会』の頃に聞いたことのある本だと思い、その旨彼女に伝えた、その直後に都屋の事件が起こり、俺と彼女は都屋の前に偶然いたというわけだ」
亨は思った。
『いずれ法廷で闘わなければならないのに、どうして、敢えて状況を詳らかに言うんだろう?』
五郎は続けた。
「都屋から大きな悲鳴が聞こえ、その直後に平岡雄仁が都屋から出てきた。そして藤原郁子を見つけた彼は彼女の処に寄って行き、一言二言、言葉を交わして、何処かへ立ち去って行った」
五郎は淡々と話す。
「その後のことは、俺にもわからない・・・。『カスケード』に関しての事実情報はこれだけだ・・・」
五郎は、自分の切り札を出し尽くして、気分がすっきりした。
「さあ、これでお互い五分五分だ!」
ふたりにとっての問題の核心にこれから迫ることになる。