第百二十一話 ボッチェリの記憶

「竹林の間」と呼ばれる離れの部屋に入った二人は、「未使用」と書かれた板切れを、座敷机の上に置いた。
「『カスケード』ってどういう意味なんだ?」
亨は五郎に訊いたが、五郎は黙って、板切れとにらめっこしている。
『単なる偶然とは思われない!』
鴨川の畔にあるホテルのコーヒーショップで、藤原郁子は五郎に訊いた。
「あのう、『カスケード』という本、ご存じですか?」
五郎は、その日のことを思い出してみた。
『彼女は『カスケード』という本のことも、その言葉の意味さえも知らなかったし、あの日は兄のたけしに面会に行った帰りだった筈だ。藤原たけしから依頼されたに違いない・・・』
五郎は、平岡雄仁のことばかりに気が行ってしまって、藤原たけしのことを、まったく気に掛けていなかったことを後悔した。
それは、亨にも言えることだったが、「カスケード」の意味さえわかっていない今の状態では、後悔しようもなかった。
『奴は、何か隠している・・・』
亨は思った。
若い頃の亨は、本音を決して表に出すことのない青年だった。
一方の五郎は、本音だけで生きている青年だった。
建前だけで生きている亨と、本音だけで生きている五郎に挟まって、容子は多感な少女から女に変貌する時期を過ごした。
恋人同士から、恋愛関係に入ると、必ず通過しなければならない関門がある。
それが本音と建前の世界との相克である。
殆んどの若者が、ここで妥協の人生を選択する。
特に多感な青年時代に、本音で生きている五郎の恋人である容子は、生きている実感の醍醐味を味わえた。
「マルクス研究会」の仲間同士で議論を交わす度に、共産主義理論そのものに内包する自己矛盾が湧き水のように噴出してくることを知った亨と容子は、為す術もなく、唯物主義に落ち込んで行った。
唯物主義とは、自己に内包する自己矛盾からの逃避に外ならない。
マルクスの学生時代がまさにそうであった。
彼ほど資本主義の負の面に執着した者はない。
つまり欲の皮の突っ張った青年であったということである。
欲の皮の突っ張った青年が、欲に振り回され、欲を満喫できなかった結果の、共産主義思想である点だ。
まさに自己矛盾の極みの産物である。
容子と亨は、「マルクス研究会」で資本主義の負の面を知った結果、普通の大人になっていった。
恋から恋愛に変質したのである。
一方、五郎は亨や容子のような理論派ではなく、行動そのものに意義を見出す実践派だった。
実践派と理論派では、人間的魅力はまさに月とスッポン程の差がある。
理論派である容子自身の中でも、自己矛盾が渦巻いていた。
先ず理論から入り、自分たちの行動力の無さを痛感した挙げ句の学生運動という、理論だけで真の行動が伴わない若さ故の空しいマスターベーションが、学生運動なのである。
そんな空しさを実感するのは、行動するリーダーだけだった。
彼に追従していく連中は、一種のママゴト遊びの感覚だ。
容子は、亨を自分と同質とみなし、五郎を異質と見切っていた中で、自己の肉体と精神のバランスが微妙に崩れていく、多感でありながら、成熟した女になろうとしていた。
「デカルトやライプニッツ、カント、ヘーゲル、そしてマルクスの世界は、わたしにとっては、何の魅力もないものになってしまったわ・・・」
容子は五郎に吐き捨てるように言った。
「わたしはボッチェリの世界に魅力を感じているの・・・」
『そうだった!学生時代に「マルクス研究会」で聞いたことがあると思っていたボッチェリの名は、容子が俺に言ったものだったんだ!一体それが、藤原郁子、そして藤原たけしとどんな関わりがあると言うんだろう・・・』
五郎は亨の顔をしげしげと眺めるだけだった。