第百二十話 夢の中の夢

筍亭は32年前とまったく変わっていなかった。
大宮駅からタクシーに乗って亨が着いた時、五郎が玄関先で待っていた。
「運転手さん、悪いけど駐車場で待っていてくれるかい?」
タクシーの運転手に言った亨に、五郎は手を横に振りながら寄って来た。
「おい、帰りは俺が送っていくから、もう帰ってもらったら?」
学生時代の五郎は、見下ろすような口調で亨に接していたが、今ではまったく角が取れた物腰に変化していることに気がついた。
一瞬戸惑った亨だったが、高校時代からの仲である。
「おお、そうかい。それでは甘えさせてもらうけど、お互いの立場上問題ないだろうかね・・」
平岡雄仁に逮捕状が出て、検察側の責任者になっている森五郎と、平岡雄仁の弁護士である小椋亨が密会するなど法曹界ではタブーどころか、法的にも問題がある。
そのことをお互いにわかっていて、敢えてふたりは会った。
自分の立場を危険に晒すことになっても仕方ない程、ふたりの人生にとっての重要な問題であったのだ。
五郎は店の予約も名前を装ってしていたし、ふたり共普段着でやって来たのは、当然のことであった。
「陽が沈むといけないから、部屋に入る前に行こうか?」
五郎は意味ありげな言葉を吐いたが、亨は間髪を入れずに頷いた。
玄関の向かい側に、小さな石段がある。
その前に、「竹林園この先」と書かれた板の看板が立ててあった。
五郎は、石段の方に歩いて行ったその瞬間(とき)、亨がうしろから話し掛けた。
「ここで、容子はお前の子供を生みたいと言ったんだろう?」
前を歩いていた五郎は黙っていたが、背中が頷いていると亨は思った。
「俺にも、ここで容子は俺の子供を生みたいと言ったんだ」
亨は続けた。
石段を上がった処に茶室があり、「未使用」の看板が掛けてあったのを見て亨は思い出した。
『あの時もそうだった・・・』
容子が前を歩き、亨があとをついていった。
容子のうしろ姿を見て、亨は茨木高校の頃を思い出した。
「俺は法律の勉強をして将来政治家になろうと思っている・・・そして総理大臣になるんだ」
五郎が輝くような表情で亨に言った。
「じゃあ、俺も政治家になる!そしてお前の下で大臣になる・・・」
貧しい家庭に育った亨にとって、生きていくには寄り掛かる大樹が必要だったし、まだ高校生の亨には五郎が頼もしい大樹に見えたのだ。
そんな生き方が迎合する生き方であるなどとは、高校生の亨には思いも寄らなかったが、その後の五郎の言葉が、亨の人生に大きな影を投げかけたことは間違いなかった。
「じゃあ、俺の言う通りにするか?」
五郎はニタッと不気味な笑いをこめて言った。
『あの時、容子は我々ふたりの前にはまだ現われていなかった筈だが・・・』
五郎と容子のふたつのうしろ姿を思い出しながら、亨はまわりの竹林にふと視線をやった。
その瞬間(とき)、一本の珍しい竹が視覚に入り、そこには、「孟宗竹」と書かれた板が掛けてあった。
『かぐや姫の竹だ!』
亨は思い出した。
身体の震えが止らず、末梢神経が完全に麻痺した状態になり、亨は遂に歩くことも出来なくなっていた。
「やっと思い出したかい?」
五郎が振り返って言う。
「やっと思い出したのね?」
容子が振り返って言う。
亨は意識が朦朧としてきた。
『これは現実の話なのか、32年前の話なのか?いやどちらでもなさそうだ。それじゃ一体・・・・』
回想が二重に三重に・・・多重に重なって浮かび上がって来ているとしか思えない状態に、亨は戸惑った。
「おい、森!」
亨は呟くように五郎に言った。
「おい、容子」
亨は呟くように容子に言った。
その瞬間(とき)、茶室の傍にあった獅子嚇しが、「カアン!」と鳴って、亨の目が醒めた。
幻想の中での幻想という珍しい現象が起こったのである。
「どうしたんだ!」
前を歩く五郎が、振り返って言った。
「いや、何でもない!」
亨は返事しながら、獅子嚇しの方に目をやった。
「何だ!」
獅子嚇しの傍で、巨大な猪がふたりを見つめていた。
「何だ!」
亨は叫んだ。
茶室に掛けてあった、「未使用」の看板を猪が口に咥えている。
獅子嚇しに水が流れ落ちていないのに、「カアン!」という音が鳴って、亨が目が醒めたのは、茶室に掛けてあった板をその強いアゴで引きちぎったときの音だったのだ。
人間の体重の2倍以上もありそうな巨大な猪に度肝を抜かれた五郎と亨だったが、彼らに何かを訴えようとしている猪の表情に気がついた。
暫くの間、お互いににらみ合いが続いたが、人間の臆病さに気づいたのか、猪の方からふたりに歩み寄って行った。
引きちぎった板を、ふたりに渡したいらしい。
口渡しようと巨大な牙を持ったアゴを差し出す猪に、恐る恐る近寄ったふたりは、「未使用」と書かれた板の反対側の文字に目をやった。
人間のすることは未熟なことが多いが、自然と一体になって生きている野生の生き物のすることは完璧である。
「未使用」と書かれてあった板の反対側を、彼らに見せるために最初から表に向けて提示していたのだ。
自然の中で生きるすべてのものは、すべてを完璧にこなす。
板には、「カスケード」という字が墨で書かれてあった。
「何だ!これは一体?」
亨が叫ぶような口調で言った。
突然の出来事で、修羅場を潜り抜けてきた五郎も、さすがに慌てて吾を見失っていた。
「カスケード?」
首をひねりながら、五郎は呟いた。
『そうだ、藤原郁子が探していた本の題名だ!』
しかし五郎は黙っていた。
彼らに板を口渡しした猪は、鬱蒼とした竹林の中へ消えて行った。
「とにかく部屋に入ろう!」
五郎は板を亨から取りながら、来た道を戻って行った。
うしろをついて行く亨は呆然としていた。