第十二話 お升と一郎

雄仁が京都に帰る日が3日後に迫ってきた。
お升は意外と淡々としていたが、今屋の主人・今秀光こと藤原一郎が落ち着かない様子だった。
雄仁は、お升に訊いてみた。
「旦那さんは、あんだのこどを気にいっでるんだべさ。そんなこたぁ、わかんねえだべか?」
お升には珍しく、怒った表情をしているのに、雄仁は驚いた。
『自分のことでは決して怒らないのに、どうして主人のことだったら・・・』
『オヒトちゃん、まだわかっていないのね!』
ハナから久しぶりの囁きがあった。
首をひねる表情をすると、お升がきょとんとしていた。
『オヒトちゃんを好きな女性と、そうでない女性を、きっちりと区別できないようでは、郁子さん、お升さんを幸せにはしてあげられそうもないわね』
雄仁なりに、きっちり区別してきたつもりだった。
『だって、藤原一郎さんは郁子さんでしょう!まだそんなことがわかっていないの?藤原一郎さんは雲西さんである貞子であり、鹿覚さんはその妹厳子でしょう。厳子は、オヒトちゃんのお嫁さんじゃなかったの?あたしも厳子よ・・・』
雄仁は、胸の辺りで呟いた。
『雲西さんも、鹿覚さんも、藤原一郎と言っているんですよ。どっちが一郎さんすなわち厳子なのか、わたしにはわかりません』
そのとき、今屋の屋根の上で烏が鳴いた。
「カア、カア、カア!」
『わかったでしょう?今の烏で・・・』
ハナは何を言いたいのか、まるで理解できない雄仁だった。
そのとき、静かに様子を見ていた、お升が口を開いた。
『お升が開いた口元は、かわいいなあ!』
雄仁の首筋に稲妻が走った。
「あんだ!また例の烏が鳴いでいるだで、上を向いたら、また白い糞をかけられるだ!注意しなあ!」
お升の口元に見とれて、ポカンと開いていた雄仁の口に、烏がまた糞を投げ込んだ。
見かねていたお升が、とうとう口を大きく開けて、雄仁の身代わりになった。
「お升!」
雄仁が叫んだ。
「いんだべ!あんだのためだ!」
雄仁は思い切り、お升を抱いた。
「ありがでえ!ありがでえ!」
お升は随喜の涙を流していた。
その様子を、ハナはほほえましく、あの世から眺めていた。
一方、今屋の主人・一郎は、襖の向こう側で、じっとその様子を眺めているのだった。
『オヒトちゃん!あなたのお嫁さんの厳子が、部屋の向こう側にいるわよ!早く行ってあげなさい!』
ハナが強い口調で囁いた。
お升のことが気になっていたが、ハナの強い口調に圧倒された雄仁は、襖を開けた。
「郁子さん!」
「わたしは郁子ではありません。今屋の主人・今秀光です!」
姿は完全に郁子なのだが、それを本人が絶対に認めないのだ。
「鹿覚さんは、厳子であって、藤原一郎ではないですね?藤原一郎は、京都、安曇野寺の雲西さんの筈です」
雄仁は今屋の主人に向かって決然と言った。
「それでは何故、平泉に行って、藤原一郎なる人物に会うように、雲西さんが言われたのですか?」
今屋の主人は、雄仁と事を構えるようなことはしたくなかった。
「今のわたしには、よくわかりません。もう明後日には京都に帰るので、一度きっちり確かめたいと思っています」
雄仁は、今屋の主人にそれだけ言って、頭を下げ部屋を出て行った。