第百十八話 清水の舞台

都屋の女将が撲殺された。
下手人は平岡雄仁だと断定され、京都地検から逮捕状が出た。
担当検事の森五郎は、この断定に納得が行かなかったが、上司の蓮沼明検事正からの直々の通達であったために、逮捕状発行を阻止することができなかったのである。
『平岡雄仁がやったのなら、その直後に都屋の玄関から堂々と出て来るわけがない・・・』
郁子と別れて、部下の刑事や警官たちと一緒に都屋の現場調査をした時に、五郎は思った。
しかし、都屋の使用人たちの証言は、平岡雄仁が下手人だと断定するのに十分な裏づけを持っていた。
ただ、五郎が納得できなかった訳は、何故平岡雄仁が都屋を訪れたのかとの問いに誰も確たる解答を与えられなかった点にある。
平岡雄仁が都屋と関係があったことは、五郎は知っていた。
しかし、事件が起こった直後から、雄仁は記憶喪失症になり、都屋のこともまったく憶えていない。
それが、どうして雄仁は都屋に行ったのか。
この疑問に対する明確な回答が得られない限りは、下手人の断定をするべきでないと思っていた。
それから、もうひとつ五郎の胸の中で引っ掛かっていることがあった。
小椋亨とその岳父である小椋卓、そして小椋卓と蓮沼明の目に見えない糸である。
蓮沼明は、東京大学法学部を卒業後、法務省に入省した法曹界のパリパリのエリートである。
蓮沼明は、東京大学安田講堂占拠事件には直接関与はしていなかったが、学生運動の急先鋒として活躍、その時に日本共産党の代議士小椋卓と気脈を通じていたらしい。
『小椋亨・卓の親子の糸と、小椋卓・蓮沼明の同士の糸が複雑に入り組んでいる伏魔殿が元凶だ!何が共産主義だ!』
五郎は反吐が出る想いだった。
平岡雄仁は、そんな伏魔殿を跳梁跋扈する魑魅魍魎たちの道具になっているだけのことである。
『平岡雄仁の役割は終わったと、奴らは考えているのだろうか?』
今までと違った現象に、五郎は戸惑ったが、平岡雄仁が、都屋の女将殺しの下手人ではないことには確信を持っていた。
『そう言えば、亨はどうしているんだろうか?』
五郎は珍しく亨に電話をした。
「もしもし。小椋ですが」
祥子が電話に出た。
容子が受話器を取り上げたのかと思ったほど、声が似ていた。
「もしもし。森と申しますが、小椋亨さんをお願いしたいのですが・・・」
幸い容子は留守で、祥子と亨だけが家にいたらしい。
「少々お待ちください!」
五郎にも聞こえる程の大きい声で、祥子は亨を呼んだ。
祥子の叫ぶような声を聞いて、五郎は懐かしい声を聞くような気分になっていた。
「もしもし、小椋ですが」
亨が電話口に出た。
『聞き覚えのある声だが、郷愁の想いがまったく感じられない・・・』
余りにも落差のある経験が、今まで考えたこともなかった想いに火を点けたのである。
「京都地検の森ですが・・・」
一瞬躊躇うような無言の音が伝わって来た。
「今回の事件も、君が平岡雄仁の弁護人になるのかね?」
五郎は、単刀直入に質問した。
亨が返事をしないで沈黙を保っているようだ。
「平岡雄仁が再び殺人容疑で逮捕状が出状されたよ・・・」
亨から沈黙を破った。
「僕は何も知らなかったよ!」
亨は溜息をついた。
「一度胸襟を開いて話をしてみようと思っているんだが・・・」
五郎の方から胸襟を開く姿勢を示したが、亨の胸の中では、一応の決着をつけてはみたものの、心の底ではまだ蟠りがあった。
「平岡雄仁の件でかい?それとも・・・」
亨は言いかけて途中で止めた。
五郎の蟠りと、亨の蟠りは正反対のものだが、当人たちはまったく気づいていなかった。
「いいだろう、いつでもOKだ!」
亨が清水の舞台から飛び下りる覚悟で言った。