第百十六話 古書籍店

郁子は歩いて今出川通りを東に向かった。
白川通りとの交差点手前から、「哲学の道」は始まっている。
少しずつ上り坂になってきた今出川通りを歩いていると、うしろからついて来る人の気配がした。
白川通りとの交差点手前で、郁子は一気に「哲学の道」にあがった。
今出川通りからは、「哲学の道」は見えない。
郁子は身を隠すようにして、今出川通りを見下ろした。
『平岡雄仁だ!』
郁子は心の中で叫んだ。
森五郎と別れるのを何処かで窺っていたのだ。
郁子は辺りを見回して、必死に書籍店を探した。
「哲学の道」を挟んで、今出川通りと反対の側に、古書籍店がずらっと軒を並べていた。
どの店でもよかった、とにかく雄仁の視界から遠離りたかった。
『お前の悪い癖が出てきたな!』
心の中で誰かが囁く。
平泉を離れて、京都のホテルに就職した直後から、時折胸の辺りで内なる囁きが聞こえるようになっていた。
その口調から、男性のようだ。
人間誰でも、内なる声を聞くことは多々ある。
しかし、それは自己のいろいろな記憶が結晶化された時に起こり、自己の記憶である故に、その声質は当然本人の性と同じである。
霊や魂の叫びなどと大袈裟に言っても、所詮その正体は記憶が蘇った自己の囁きに過ぎない。
ところが郁子が聞いた胸の内なる声は、あきらかに男性だった。
「いらっしゃい!」
書籍店の主人らしき老人が声を掛けてきた。
『こんなチャンスに必ず外部から邪魔が入る!』
郁子は興奮した。
「あの・・、『カスケード』という本、ありませんか?」
店主は首を傾げて言った。
「うちの店は哲学の本ばかりを扱っているんで・・・」
申しわけなさそうに言う店主に、郁子は腹立し気に言い放った。
「『カスケード』という本は、イタリア人作家ボッチェリの作品で、歴とした哲学書ですが・・・」
店主は申しわけなさそうに、頭を抱えて言った。
「ああそう!てっきりポルノ雑誌かと思ってしまって・・・」
『ポルノ雑誌?』
内心ムカッとした郁子だったが、平岡雄仁のことが気になっていた。
老人の店主は、美形の郁子にちょっかいを出したつもりだった。
「うちには、世界中の哲学書が数千冊あるが、そんな名前の本は聞いたこともないなあ!」
「だけど、京都大学の学生さんなら誰でも知っている本らしいんですけどね・・・」
今度は郁子が店主にちょっかいを出した。
老人は頭に来たらしい。
「京都大学と言えば、西田畿太郎先生を筆頭に、多くの世界的な哲学者を輩出している・・・。そんな大学の傍で百年以上哲学書を専門に古書籍店をやってるんだ!知らない哲学書はないがね!」
声を荒げて言う店主に気づいた、別の客がふたりの処へやって来た。
「『カスケード』という哲学書なら、イタリアのボッチェリの作品でしょう?」
まだ学生風の若い男が、郁子に言った。
「ええ、その通りです。ボッチェリが著した哲学書です。何処に行ったら手に入るかご存知ですか?」
その若い男は、ニヤニヤ笑いながら、店の一番高い棚の方を指さした。
何と、そこに『カスケード(上)』とはっきりとした黒い字で書かれた本が横たわっていた。
「おじいさん!数千冊の中にあったじゃないの!」
郁子が茶化すように言うと、自尊心を傷つけられた店主は、その本を引き摺り下ろし、郁子の前に置いて言った。
「そんなに欲しいんなら、あげまっさ!」
やっと手に入れた本を片手に、郁子はそっと店を出た。
今出川通りを覗くと、まだ雄仁がうろうろ、郁子を探している様子だった。
またまた郁子の悪い癖が出そうになった。
『お前の悪い癖が出てきたな!』
心の中で、再び誰かが囁いた。
郁子はその囁きを無視して、雄仁がいる今出川通りに出て行った。