第百十五話 都屋の叫び

五郎は雄仁とは、すれ違いばかりでまだ面識がない。
郁子は百万遍の交差点の電信柱に一瞬身を隠したが、五郎が平然としているのを見て、意を強くした。
「哲学の道に行きませんか?」
今の郁子には、雄仁よりも五郎の方に関心があるようだ。
「彼が平岡雄仁ですか?」
五郎が郁子に訊いたが、郁子は返事もしなかった。
「なかなか品がありますね?」
微笑すら浮かべている五郎に対して無性に腹が立ってきた郁子だが、新鮮な関係でいる間は弱い立場にいるのが郁子の宿命だ。
「あなたも、品がありますね?」
五郎が意味ありげに言った。
「わたしの前世が女御だと言いたいんでしょう?」
やっと郁子が口を開いた。
五郎は郁子の言っていることを無視して独り言を呟いていた。
『小椋容子の若い時によく似ている・・・』
32年前のことが浮かんで来た。
「わたしの家族は呪われた血で塗れているから、わたしと一緒になれば、あなたも呪われた血にいっぱい塗れることになる」
五郎は容子の言っている意味がわからなかったが、敢えて訊かなかった。
「だけど、わたしはあなたの刻印が欲しい」
ますます彼女の言っている意味がわからない。
「もう既に刻印は終わったわ」
『既に』という言葉だけが、五郎の脳裏を走って首筋に稲妻を走らせた。
そして容子は、一生忘れられないあの言葉を発した。
「わたし亨さんの子供を身篭ったの」
容子が申し訳なさそうに言った。
心の傷は生身の傷と違い、一瞬にして癒されることもあるが、一瞬にして血が滴り落ちるような傷にも戻る。
五郎は首を三回横に振った。
「あの人がやって来る!」
郁子の叫ぶような声で、五郎は我に帰った。
郁子から数歩前を歩いていたことが幸いした。
「あんた、何処に雲隠れしたいたんだ?」
郁子の姿を見つけた雄仁が、近づいてきて郁子に言った。
五郎は何気ない様子で交差点で信号が変わるのを待っている振りをした。
「わたしは被害者だから、警察は事情を訊いただけで、すぐに家に帰らせてくれたのよ。当然でしょう?」
恐るべく殺人者ではあるが、郁子は雄仁に対して恐怖感を感じなかった。
「それより、わたしの兄が、義幹をあなたに殺されたことを知って、怒り狂っていたわ」
郁子は大袈裟に言ってみたが、雄仁は動揺している様子を見せなかった。
「あんたのお兄さんって、あの拘置所にいた陰気な男かい?」
郁子は黙って頷くだけにした。
「あの男は終身刑なんだろう?俺は自由の身だからなあ!」
ニタッと笑って雄仁が言った。
「もうこれから暫くの間はおとなしくしておくよ」
そう言って、郁子には目もくれずにその場から立ち去って行った。
五郎は迷った。
『哲学の道を選ぶか、司法の道を選ぶか』
その時、大きな悲鳴が聞こえた。
五郎は一瞬雄仁の姿を追ったが、辺りにはもういなかった。
悲鳴は都屋の中から聞こえてきたらしい。
周辺が騒々しくなってきた。
「哲学の道の散策は、この次ですね」
申しわけなさそうに郁子に言ったが、彼女は笑っていた。
そうこうする内に、パトロールカーがサイレンを鳴らして飛んで来た。
五郎はパトロールカーに近づいて行って、内ポケットから手帳を出して、警官に見せた。
ふたりの警官が車の中から飛び出て、五郎の前で直立した。
「ご苦労さまです!」
上官らしい警官が五郎に敬礼をした。
「何て通報があったんだ?」
五郎が質問した。
「はい。都屋の女主人が撲殺されたとの通報が、店の者からあったそうであります!」
『またか!』
五郎は呟いた。
平岡雄仁を追うべきか、『カスケード』を追うべきか。
将来のことを考えれば、『カスケード』のカードを追うべきであることは明白である。
しかし、これ以上平岡雄仁を放置しておくわけにはいかない。
五郎は決断した。
「すみません、『カスケード』は哲学の道に行って古書籍店で探してください」
五郎は郁子にそう言って、一礼して都屋の中に入って行った。
この決断が、後々とてつもない運命の皮肉を生むとは、五郎も郁子も想像すらできなかった。