第百十二話 平泉事件

郁子は兄のたけしと二度目の面会をしていた。
北拘置所で一ヶ月前に面会した時、隣に平岡雄仁と小椋亨がいたことが思い出された。
「今日は、義幹はどうしたんだ?」
たけしが郁子に訊いた。
「今日は、仕事の帰りに寄ったから、義幹はお家に置いてきたの・・・」
下手な嘘をつく郁子の顔が赤くなった。
「俺は、すべて知っているんだ!」
突然たけしが立って、怒鳴るように郁子に言った。
郁子は歳の割には、度胸の座った女性だ。
「何のこと?」
平然とした表情で言う。
「顔が赤くなったのが嘘を言っている証拠だ!」
たけしが依然興奮している。
「お兄ちゃん、昔から、わたしが嘘をついた時は、顔が青くなることぐらい知ってる筈でしょう!」
わかったような、わからないような話をされると、単純なたけしの脳味噌では、追いつけない。
「所員のひとりが、事件の真相を俺に教えてくれたんだが、この前、ここにお前が来た時に、隣にいた野郎のこと憶えているか?」
郁子はとぼけた。
「ううん!?」
『どうやら、詳しいことは知らないらしい』
郁子は思った。
「その野郎が、とんでもない事件を起こしたらしい」
郁子は黙って聞いていた。
「二条城でタクシーの運転手と赤ん坊が殺されたらしいが、その時赤ん坊を連れていた女が、その後犯人と一緒に行方不明になったと言うんだ」
郁子は心の中で震えた。
『兄は正確なことを知っているかもしれない・・・』
「その女と言うのは、お前のことじゃないのか?」
殺気を帯びた目で、たけしは郁子を睨みつけた。
郁子の顔が再び赤くなった。
「何で行方不明の女が、のこのことこんな所へ来ているの?」
居直った女の態度は堂々としている。
郁子は1年前のことを思い出した。
たけしと郁子は、中尊寺で有名な藤原三代の末裔である。
父・藤原明衡(あきひら)は、藤原三代の始祖である清衡(きよひら)から26代目の子孫にあたる。
父・明衡の時代まで材木問屋の商いをしていたが、悪質な高利貸しに騙されて、破産の憂き目に遭い、東北大学3年生だったたけしは中退して、仙台から平泉に戻り、平泉警察に就職した。
郁子とたけしは3才違いで、一家破産騒ぎ当時、高校3年生だった郁子は、何とか高校だけは卒業して、不景気の真只中の地元産業での就職が困難だったために、京都のホテルに就職したのだ。
事件は、久しぶりに平泉に帰省していた郁子と、たけしが平泉駅前の喫茶店にいたところから始まった。
近くにある風俗店に務めている桜が、腫らせた顔を真っ赤な血で染め、露な姿のままで、ふたりの前に飛び込んで来た。
「どうしたんだ?」
青ざめた表情で、たけしは桜に訊いた。
「桃子ちゃんが、あたしとたけしさんのことで・・・」
平泉の駅前の派出所で平警官をしていた藤原たけしは無類の女好きで、警官という職業も忘れて近くの風俗に通っていた。
たけしがいそいそと通っていた平泉の風俗の店では、桜と桃子というふたりの商売娘が切り盛りしていた。
桜は決して美人ではなかったが、気立てのよい娘だった。
一方、桃子は己の美形を鼻にかけた強欲な女だった。
客の大半は桃子を指定したが、たけしは桜の気立てのよさが気に入っていたのだ。
そんなたけしと桜の様子を嫉妬した桃子が、桜をののしり、挙げ句の果てに暴力まで振るったのだ。
桜の無残な様子を見て、たけしはキッチンにあった包丁を持ち出して、喫茶店を飛び出した。
それから1時間後、店で仕事中の桃子と居合わせた客の身体を、たっぷり時間を掛けて切り刻んだのだ。
断末魔の悲鳴が数時間に亘って店のまわりに轟き、通報で掛けつけて来た警察も、しばらくは手も出せずに、桃子と運の悪かった客の喚く声を聞くだけだった。
郁子は、途中で何度もたけしをなだめようとしたが、一旦切れたたけしを止めることは誰もできないことを悟ったのだ。
数時間後、たけしは、自分の勤務していた平泉警察によって逮捕された。
仙台地方裁判所でのたけしの判決は死刑だったが、郁子が奔走して控訴して、高等裁判所でも判決が死刑だったのを、最高裁で理由は如何であれ、終身刑にまで漕きつけたのは郁子の粉骨砕身の努力によるものだった。
最高裁も、郁子の努力を評価して、郁子の住む京都にたけしを拘置するよう計らってくれたのである。