第百十話 人間の垢

小椋亨は錯乱状態に陥っていた。
しかし、自己抑制力の強さが辛うじて自己の存在感を維持できていたのだろうか。
妻の容子と岳父の卓との間に繋がっている、呪われた血が、32年の時空を超えて、この世的成功に対する愛憎の狭間で生きざるを得なかった亨の境遇に重くのし掛かっていた。
仙洞御所で味わった、この世的物欲の世界に対する屈辱感を払拭するかの如く、亨は再び、自己の存在感を取り返すために、32年前と同じように動いた。
平岡雄仁は、そんな亨の心情を見抜いたような行動をする。
時には、亨の心情に合わせたことをする。
時には、亨の心情を逆撫でするようなことをする。
その接点に郁子が立っていた。
仙洞御所や深草北陵の十二帝陵では、亨の心情を逆撫でするようなことをしたが、その反動で気づいた雄仁は、亨の心情に合わせて自首した。
しかし、郁子が自分から離されると感じた雄仁は、再び亨の心情を逆撫でする行動に移すに違いない。
それは一重に、亨のこの世に対する愛憎と、卓・容子父娘の呪われた血との相克に掛かっているのだ。
亨は、深草の十二帝陵での抗争事件に雄仁が絡んでいたことを、妻の容子から聞いた。
もちろん容子は岳父の卓から聞いたに違いない。
日本共産党は政権を一度も獲ったことはないが、それなりの各省庁とのパイプを持っていて、法務省とのパイプが自由法曹団というシンジケート組織である。
『衆議院議員のバッジと、宇都宮家という血統が、小椋卓のステータスを強固なものにしているんだ!』
亨は、岳父の人生と自分の人生をいつもラップさせる。
『俺と何処も違ったところはない筈だ!宇都宮家の血が容子の母親のユキのものだ。俺の女房の容子にも宇都宮家の血は繋がっている・・・』
亨は、「ハッ!」と思った。
自分の顔色が真っ青になっていく様がわかった。
体内の血が逆流している音が耳の奥で聞こえる。
『祥子だ!』
亨の手がぶるぶる震えた。
『容子は間違いなく小椋卓の血も引いているが、俺の娘の祥子は・・・』
帰宅した自分を玄関まで迎えに出てきた時の祥子の顔を見て、一瞬脳裏に走ったものを思い出すのが恐かった。
二条城で五郎に久しぶりに会った時は、左程思わなかったが、京都地検の五郎の事務所で、岳父と電話のやり取りをしていた時に、ふと五郎の横顔を見た。
その時に、湧いてきた想いだった。
『祥子に生き写しだ!』
しかし、ただそれだけだった。
帰宅途中、四条河原町で下りて、先斗町の料亭「出石(いずし)」の看板を見たときに、はっきりと脳裏に走って行く文字の画像が見えた。
しかし、そのときも、ただそれだけだった。
帰宅した自分を玄関まで迎えに出てきた時の祥子の顔を見て、それまで点でしかなかった画像が線になったのだ。
自己の意思が、その瞬間(とき)はじめて亨の中に芽生えた。
亨は雄仁が拘留されている伏見の拘置所に向かった。
『今度こそ、俺の力でやってみせる!』
拘置所長に面談した亨は、既に東京から連絡が入っていることを知らされた。
「東京からの話は無視してくれて結構です!今回もわたしが平岡雄仁の弁護人になるために、本人と先ず面談させてください」
所長にきっぱりとした口調で言った。
亨の意志の強さを感じた所長は、雄仁との面談を了承した。
亨との面談を渋った雄仁だったが、亨が決死の覚悟で、自分の過去を告白する様子に次第に胸襟を開いていった。
雄仁の今世での想い、前世での想いが、亨の告白とラップしていった。
「わかりました。何でも言われる通りにします」
雄仁は、はじめて亨に素直に接した。
「あの、藤原郁子という女性は・・・」
雄仁が亨に訊ねた。
「あなたが自首したあと、すぐに自由になったそうですが、その後何処に行かれたかわからないんです」
亨は正直に答えた。
雄仁は、タクシーの中から二条城を見かけたときのような、目が潤んだ表情になりかけたが、すぐに気を取り直して言った。
「そうですか・・・」
「ここを出られたら、行く所はありますか?」
亨は前にも同じことを雄仁に訊ねたが、記憶喪失症に陥っている雄仁には、何も答えられなかった。
「あなたの前は・・・・」
亨は雄仁の過去を喋りはじめた。
異常体験をしたふたりの人間の垢が溶けていく瞬間だった。