第十一話 烏の涙

雄仁は、色ごとに違う世界を同時進行で経験している。
普通の人間なら、医者から精神分裂症だと間違いなく診断を下されるだろうが、彼は見事にそれぞれの世界を整理している。
雲西や鹿覚のような修行者であれば、そういった異常体験に対応することができるだろうが、修行者の経験をかじる程度しかしていない雄仁に、なぜこのような体験ができるのであろうか。
「あんだ、今日はどこさ行っでだのだ?」
お升にしては、珍しい質問をしてきた。
雄仁を詮索するようなことを、決してするような女ではなかったからだ。
「平泉の町の散策をしていたんだ」
雄仁は正直に答えた。
「そうだべか。旦那さんから聞いでおげっちゅうで言われだもんだから。すまんだべ」
耳を閉じて、お升の表情だけを見ると、『何てかわいい女なんだ!』と思うほど、魅力的な女性だ。
「わしは、あんだに抱いてもらうだげでいいんだ・・・」
耳を閉じていたから、肝心なことが聞けなかった。
彼女のうっすら紅色に染まった頬を見て、雄仁は察した。
お升は、雄仁の為すがままにまかせていた。
女とは受け身がその本来性であることを、見事に発揮する女性である。
男は快楽と快感を別に考える生き物だから、攻撃的な性行為をしているときは、快楽の極致に達するが、快感の頂を得ることは難しくなる。
快楽と快感両方の極致に達するには、お升のように完全な受け身姿勢でなければ不可能である。
普通の女なら、どこかで攻撃的な気持ちが湧き、完璧な受け身になり切れないのだ。
雄仁の一挙手一投足に、目を瞑って、ただ合わせるだけのお升だった。
『ハナなら・・・』
一瞬、囁きかけたが、すぐに止まった。
お升の雰囲気が、ハナを寄せつけないのだ。
激しさのまったくない、荘厳な雰囲気の中での、雄仁とお升の抱擁だった。
「あんだ、えがっだ!」
雄仁は耳を閉じて、お升の口下を見て頷いた。
そのとき、今屋の屋根の上から、二羽の烏が、「があ、があ、があ」と三回、喚めくように鳴いたのを雄仁は聞いた。
お升を抱いた部屋の天井が透き通って、濃紺の夜の天空が見えた。
濃紺の天空の中を、二羽の烏が飛び立ったと思いきや、真っ白な雨が、雄仁の顔めがけて落ちてきた。
「わあ!」
悲鳴をあげた雄仁に、お升は叫んだ。
「あんだ、どうしたんだべ?」
お升が雄仁の顔を見て、急に笑い出した。
「あんだ、こりゃ、烏の糞だべ。どうして烏の糞だば、こんなどころでぶっかけられんじゃ?」
不思議そうに、雄仁の顔を眺めながら、自分の胸元から引っ張り出した手拭で、一所懸命ふき取ってやろうとする。
「痛い!」
雄仁が叫ぶ。
「いだい?なんでいだいんじゃ!」
お升は不思議そうに言い、更にふいてやろうとする。
「ひゃあ!」
今度は悲鳴に似た叫び声だ。
「あんだ!だいじょうびがえ?」
そう言いながら、またふいてやろうとする。
とうとう雄仁は失神してしまった。
お升が、天井の上に拡がる夜の天空を見上げると、ハナと郁子の笑顔が満月のように輝いていた。
「わしも、あんだらのとこさ行きだべえ・・・そして烏の糞を涙にして、この男さぶっかけでやりでえ・・・」
一人の男を取り巻く三人の女性の、愛憎の世界。
烏の糞が、その気つけ薬だった。