第百七話 疑惑

五郎からあと4時間あると言われた亨は、五郎のことよりも、東京にいる岳父の卓のことで頭がいっぱいだった。
出町柳から御殿山にある自宅に帰るため京阪電車に乗ったが、容子が待っていると思うと、河原町で途中下車してしまった。
「今日、平岡雄仁を迎えに京都拘置所まで行って来るよ」
自宅を出る前に、亨は勝利の美酒に酔った気分で容子に言った。
「ああ、そう?それはよかったわね」
微笑ながら、何気なく言ったが、入り婿の気持ちは本人でないとわからないものである。
今回の件は、岳父の卓の力を殆ど借りずに、自力で勝ち獲ったものだと自負していたが、実は容子が黙って父親に相談をしていたのだ。
二条城での事件で、自分の力では無理だと思ったが、東京にいる岳父に相談したことで内幕を知ったのだ。
それだけに容子が待っている家に帰る気になれなかった。
河原町で途中下車して、先斗町の石畳の通りを当てもなく、ぶらついていたら、「出石」という名の料理屋の前に出た。
『出石(いずし)か!』
32年前のことが浮かんできた。
「亨さん、あなたの赤ちゃんが欲しいの・・・」
宮津の天橋立から帰る途中、福知山に寄ったふたりは「出石(いずし)」と呼ばれる蕎麦屋に入った。
「この店の蕎麦はうまいなあ!」
感激して蕎麦をパクついている亨は、容子に唐突に言われて仰天した。
「何だって!」
亨は、容子は五郎の恋人だと思っていたが、彼自身も容子のことが好きだった。しかし、尊敬している五郎が相手だけに、複雑な気持ちになった。
「君は、五郎の恋人なんだろう?」
亨の質問に容子は首を横に振った。
その帰り道にあるホテルにふたりは入った。
それから暫くして容子は妊娠した。
「亨!お前容子に何をしたんだ!」
五郎は今にも亨を殴らんばかりの勢いだった。
容子から、五郎とは恋人関係ではないと聞かされていた亨は、珍しく五郎に対して強気に出た。
「別にお前に文句言われる筋合いはないだろう!彼女は、お前とは何もないとはっきり言ってたよ!」
五郎は容子の本音を悟った。
「そうか!あいつはそう言ってたか!」
五郎は背中を丸めながら、その場を立ち去った。
「遂にあいつに勝ったんだ!万歳!」
亨はまわりに人がいることも忘れて叫んだ。
亨と容子は学生結婚をした。
容子の父親の卓の提案で、亨は小椋家に婿入りすることになり、将来は卓の地盤を引き継いで政治家になる一歩を踏み出したのだ。
「あれからもう30年以上経ったのか・・・」
しかし岳父の卓は、90才を過ぎているにも拘らず、地盤を亨には引き渡す気配すら見せなかった。
そして亨の弁護士の仕事にも口出しする始末だった。
気がつくと、京阪電車に乗って家路についている普段の自分に戻っていた亨は、腕時計を見た。
12時10分前を指していた。
『あと10分だ!』
ため息をつきながら、亨は門のチャイムを押した。
「お帰りなさい!」
ひとり娘の祥子が玄関で迎えてくれた。
亨は祥子の顔を見て一瞬驚いた。
「お父さん、どうしたの?」
『まさか!?』
亨は首を横に振って、脳裏を掠めた想いを掻き消した。
二条城事件が発生してから一ヶ月が過ぎた。
五郎は蓮沼検事正から、この事件の担当を申し渡されたが、まったく気が進まなかった。
亨がこの事件の容疑者側の弁護士であることよりも、平岡雄仁という人物が容疑者であることが、その原因だった。
京都は、1200年間日本の首都であったいわゆる古都でありながら、政治的には保守的どころか革新的な町であった。
知事も歴代革新派政党から選出されてきた。
京都大学は全国の学生運動の巣窟とまで言われ、民間大企業は京都大学の卒業生を歓迎してこなかった。
東京大学の安田講堂占拠事件が起こって以来、大学生を目の敵にする風潮が、東京都民の間に強くなっていき、大学生にとっては、東京は決して居心地のよい町ではなくなっていった。
一方、京都は学生を大事にする風潮が昔からある。
それは明治維新をやり遂げた、所謂勤王の志士たちへの郷愁であり、その根源には、徳川幕府の江戸に対するアンチテーゼが深く横たわっているのだ。
都民とは本来、京都人のことを指すのであって、当時東京は東京都ではなく東京府であった。
明治元年7月に江戸が東京に改名された。
当初は東京府と言われていたが、府の語源は、徳川家康が晩年駿府つまり静岡に居を構え、院政を敷いたことから始まる。
府内とは江戸のことを指したのである。
ところが日本が第二次世界大戦に参戦すると、戦時体制構築のために首都行政の効率化・一本化が要求されるようになり、1943年7月に東京府・東京市が東京都になったのである。
東京という名は、京都が語源であり、京都よりも東にある都から東京と呼ばれるようになったのであり、元祖はやはり京都という名にある。
京都という名は、平安京から来ている。
平安の都が平安京である。
奈良を平城京というのは、 平城と書いて「なら」と呼ばれていたことから起こったもので、平城京とはまさに、「ナラ」の都であったのだ。
そんな京都人にとっては、朝廷に対するアンチテーゼはあるものの、幕府つまり鎌倉・江戸に対するアンチテーゼは遥かに強いのである。
五郎の深層心理の中にある想いが、平岡雄仁に対する親近感を増幅させていたのである。
亨が、平岡雄仁の弁護士に自ら手を上げたのも、五郎と同じ心理からであったことは、想像に難くない。
本来ふたりは同じ想いであったのが、何処で食い違って来たのか、五郎には、それを想い起こす余裕がまだあった。
しかし、亨にはその余裕がまったくなかった。
この乖離を埋めるどころか、ますます大きくさせる状況に事態は展開していくことになる。