第百六話 仙洞御所

雄仁は郁子を連れて、仙洞御所に向かった。
かつて母親のハナと一緒に来て、二度目の罪を犯した場所である。
そんなことを露も知らない、記憶喪失に陥った雄仁であったが、肉体は憶えていたのであろうか。
目の前で義幹が殺されるのを見た郁子は、雄仁が常人でないことは承知していたが、それよりも将来に対する恐怖が、彼女の胸の内を独占していた。
『兄のたけしがこの事を知ったら・・・』
考えただけで、身の毛もよだつほどの場面が浮かんでくる。
終身刑になった藤原たけしの犯した罪は、単なる殺人ではなかった。
怨恨がここまでの残虐な行為を人間にさせるのかと、司法関係者も驚くような殺人だった。
「本来は極刑に値する罪であるが、その残忍さは極刑をも色褪せさせるものである。従而、死を得られない苦しみを以って罪を贖えさせる終身刑を言い渡すものである」
最高裁の裁判長が藤原たけしに言い渡した、日本司法史上例のない判決であった。
郁子はたけしが犯した殺人現場に居合わせた。
常軌を逸脱した状況に陥ると、人間は却って冷静になれる。
二条城での雄仁の残虐さは、たけしの事件のことを髣髴させた。
「このふたりが出会ったら、どうなるのかしら?」
死んだ義幹のことを悲しいと思えない自分の非情さよりも、ふたりの化け物の存在に対する畏怖心の方が郁子の心の中を占めていた。
仙洞御所は、今は庭園だけだが、後水尾天皇の為に、徳川三代将軍家光が造営したものだ。
元を糺せば、後円融上皇が住んでいた御殿である。
仙洞御所は御所のすぐ近くにあったが、御所の広大さに比べて、小さな粗末な庭園で、御殿があったとは言え、およそ帝や治天の君(上皇や法皇)が住むような場所ではなかった。
徳川時代の寛永年間に、それまで荒れ野原のままで放置されてあったのを、三代将軍家光が、寛永八年(1630年)に後水尾天皇のために復元したものである。
足利三代将軍が天皇家を陵辱したのを、同じ武家の徳川家光が復権させたのである。
徳川家は源氏の血などまったく引き継いでいないにも拘らず、家光が東照権現として徳川家康を日光に祀った時に、源氏姓を名乗った。
家康を東照権現としたのも意味深い。
東照とは、東の天照大神を指すのであって、江戸を日本の中心にして、伊勢の遷宮をもじったのである。
徳川家は元々松平家であり、足利家のような源氏の血統を誇る家系でなかった故に権威に弱かったのかも知れない。
「ああ!あなた様は!」
仙洞御所の警護官が雄仁を見て言った。
雄仁はまったく憶えていなかったが、ハナと一緒にこの場所を訪れた際の風貌が幸いした。
警護官はすぐに庭園の奥にある茶室にふたりを案内した。
郁子のことをハナと勘違いしているのだ。
ふたりを茶室に案内すると警護官は何も言わずにその場を立ち去った。
ハナと情を交わした場所である。
亨は岳父の卓の指示を受けて、仙洞御所に5人の猛者たちを連れて向かった。
「平岡雄仁は必ず仙洞御所に行く筈だ!力づくでも自首させるのだ!」
卓から指示を受けた亨は、すぐに伏見を拠点としている猛者たちを掻き集めて、今出川通りを北上した。
茶室で向かい合ったふたりは、黙っていた。
「あんた、俺と会ったことはないかい?」
京都拘置所で亨に訊いた時の疑問が再び湧き上がってきたのである。
「いいえ、一度も・・・」
殺人鬼の前で平気でいる自分に驚く郁子は、冷静に返事をした。
「俺も、はじめてだとは思うんだが・・・・、以前どこかで会ったような気がしてならないんだが・・・・」
郁子も内心そう思っていた。
その時、警護官の囁くような声が茶室の外からした。
「お邪魔をして申し訳ございませんが、危険が迫っているようでございます。どうか、わたしの言う通りになさってくださいませんか・・・」
雄仁は動揺したが、郁子は冷静だった。
「行きましょう!」
郁子が雄仁の手を引っ張った。
一瞬雄仁の記憶が蘇った。
「今日中に強制的にでも自首させるのだ!」
小椋亨は5人の猛者たちに強い口調で言った。
「“Wanted dead or Alive”でいいですか?」
猛者のリーダー格の男が訊いてきた。
「だめだ!“Wanted Alive Only”だ!」
亨がその男に言った。
5人がぶつぶつ言い合っている。
「仙洞御所の正門前に着きました」
運転手が亨に言った。
「いいな!殺しては駄目だ!」
不服そうな表情で車を降りようとした連中に、亨は更に言った。
「怪我をさせても駄目だ!」
肩を上げて車を降りて行く連中の背中を見て嫌な予感がした亨は、公衆電話を探して、東京に電話をした。
正門に入りかけた連中が、警護官詰め所の横を通り過ぎようとしたとき、雄仁と郁子を案内する警護官と鉢合わせしてしまった。
辺りは暗くなっていたので、うしろにいる雄仁と郁子の姿が見えなかった彼らは、警護官にドスの利いた声で言った。
「おい、ここに男と女の連れが来なかったかい?」
雄仁は、警護官の背中をつついた。
「はい、ここにいらっしゃいます」
「何だって?」
怪訝な表情を浮かべるリーダー格の男の前に、暗い物陰が現れた。
「ぎゃあ!」
暗闇と沈黙を破る音が鳴り響いた。
「何だ!今の叫び声は?」
電話の相手の岳父の卓にも聞こえる程の叫び声だった。
「ぎゃあ!」
同じ悲鳴が何度も響き渡る。
「もしもし!」
電話の向こう側で卓が叫んでいるのだが、肝心の公衆電話の受話器の主人はもう消えていなくなっていた。
「もしもし!」
暗闇の京都の御所で、公衆電話から空しい声が響いているだけだった。
亨は正体の見えない陰に追いかけられ、必死で逃げた。
「お上、こちらへ・・・」
仙洞御所の警護官は、雄仁と郁子を伏見の泉涌寺まで案内して行った。
「お上って、わたしのことか?」
雄仁は、警護官に訊ねた。
「はい、あなた様は、北朝第五代後円融天皇の生まれ変わりです」
警護官は郁子の方を向いて、更に言った。
「そして、あなた様は、後円融天皇のお后の厳子様の生まれ変わりです」
郁子は驚いた。
「わたしが、この人の后だったんですか?」
泉涌寺の参道までやって来た三人を、黒装束の人間が出迎えに来ていた。
「ここから本堂までは遠いので、これに乗ってください」
ふたりの前に差し出された御輿こそ、八瀬の童子であったことを、雄仁は、その後、深草北陵に行くまで気づかなかったのである。
「わあ!」
突然現れた五郎の姿を見て、亨は叫んだ。
「ここは?」
亨の問いかけに五郎は答えた。
「ここは京都地検の前だよ」
仙洞御所から必死で走って来た亨は、無意識の内に五郎の所へやって来たのだ。
「平岡雄仁を今日中に自首させる件はどうなっているんだい?」
五郎は友人として尋ねたが、亨は何も言えなかった。
「まだ8時過ぎだから、あと4時間あるがね・・・」
五郎はそれだけ言うと、京都地検のビルの中に消えていき、亨は五郎のうしろ姿を眺めながら呆然と立っていた。