第百五話 呪われた血

二条城の正門をくぐった五郎と亨が目撃したものは、この世のものとは思えない光景の余韻だけであった。
ふたりにとって、幸いであったと言えるかも知れないが、人間社会における彼らの立場では不幸の極みと言えるのかも知れない。
五郎の心の中で何かが動いた。
『・・・・・・・』
亨の心の中で何かが動いた。
『・・・・・・・』
その意味するところは何なのか、本人以外知るべくもない。
郁子が抱きかかえていた赤ん坊と、老齢のタクシー運転手が、まるでアフリカの広大なサバンナで、肉食獣でさえ見向きもしない、土に帰る前の得体の知れない屍のような様相で横たわっていた。
亨は目を背けたが、五郎はまるで無機物を扱うように大小の死体を凝視していた。
同じ法曹界に身を寄せていても、弁護士は修羅場に足を決して踏み込まずに、口先だけで生き抜いて行く商売に対して、検事は修羅の世界に我が身をどっぷりと浸ける因果な仕事であることが、ふたりの態度に顕れていた。
「平岡雄仁は既に逃亡したようだ・・・」
五郎は亨に背を向けながら、三人の警官に厳しい命令口調で言った。
「二条城の捜索を御許可願います!」
上官らしい男が、五郎に敬礼をして指示を仰いだ。
五郎は黙って頷き、雄仁に目を潰された警官の方を見ながら言った。
「救急車を呼んでやるから、君は車の中にいたまえ!」
上官らしい警官が、もうひとりの警官に叫ぶように言った。
「行くぞ!」
ベルトからピストルを抜いたふたりの手は震えていた。
パトロールカーの電話で救急車を呼んだ五郎が、亨の方にやってきた。
「記憶喪失症患者が更にふたりの人間を殺したんだ。君は責任を感じないかね?」
怒りを押し殺していることが、亨にはよくわかった。
弁護士の立場だけなら、亨も反論をしたであろうが、高校・大学の同級生である人間から訊かれて、何も答えることはできなかった。
亨にとって取り得る方策は、沈黙することが精一杯であった。
結局、雄仁を捕らえることができずに、ふたりの警官が彼らのところへ戻ってきたのは、それから2時間経過したあとだった。
さすがに、野次馬たちも、それぞれ自分たちの本来の目的に戻っていったようで、現場には五郎と亨が、主人のいなくなったタクシーの傍でふたりの警官を待っていたが、その表情には捜索の結果に対する期待感はまったく感じられなかった。
「申し訳ありません、取り逃がしました!」
京都地検に戻った五郎は、ふたりの警官に書記官立ち合いの下、指示を出した。
その様子を見ていた小椋亨は、デスクの電話を借りて東京に電話をした。
「もしもし、議員会館ですか?小椋卓議員事務所に繋いでください」
五郎はその話を聞いて苦笑いをしながら、書記官と警官たちに目配せをした。
『奴の岳父にすがる積もりだ!やれやれ!』
誰にもぶつけることができない怒りは、自分の心の壁に思い切りぶつけるしかなかった。
五郎の脳裏に再び32年前のことが浮かんできた。
「容子!映画観に行かないか?」
五郎は恋人の容子に言った。
「授業がまだあるんだけど・・・」
容子は困ったような表情で五郎に言った。
「そんなのさぼっちゃえばいいじゃないか!」
五郎はいつも強引だ。
「いいわ、何処に行くの?」
五郎の強引さに戸惑いと快感が錯綜する中で、容子の採る道はいつも同じだった。
小椋容子。
京都大学文学部三年生。
五郎と亨が所属している、「マルクス研究会」のマネージャーをしていて、彼女の父は、日本共産党員で衆議院議員の小椋卓だ。
「亨さんも一緒?」
容子は何気なく訊いたつもりだったが、五郎の表情が変わった。
「ごめんなさい!」
五郎に思い切り殴られた容子は哀願するように、五郎に許しを乞うた。
五郎に暴力を振るわれる度に、亨のことが脳裏を掠める容子だったが、感受性の強い五郎は、そんな容子の心理を見抜くと、怒りの感情を抑え切れずに、更に激しい暴力を容子に与えるのが常であった。
しかし、容子には父親の卓から幼児の時から植えつけられたトラウマがあった。
ロシア革命が起きた20世紀初頭の日本は、丁度大正時代の真只中で、明治と昭和の狭間の平和な時代であった。
大正デモクラシーと呼ばれ、文化人を多く輩出した時代である。
容子の父・卓もそんな大正デモクラシーの自由思想の時代の中で、マルクスの「資本論」に没頭している学生だった。
容子の母・ユキは、甲斐の武田家の血いわゆる清和源氏の血を引く、広島の宇都宮家に生まれた。
卓も広島出身だったが、京都大学文学部に入学した。
2年生の春休みに郷里の広島に帰省した時、卓のパトロンであった宇都宮家に挨拶に行った時のことである。
卓が宇都宮家の応接間で待っていると、末娘のユキがお茶を持って入って来た。
ユキはまだ16才だったが、その美形に卓は自己を失ってしまい、我に帰った時には、目の前で下半身が露な姿になった哀れなユキの着物姿が横たわっていた。容子の両親の出会いであり、容子の誕生の瞬間だった。
ユキは容子を身篭った。
宇都宮家の応接間での出来事は、卓とユキの秘事では済まなかった。
事情を知ったユキの父親であり、卓のパトロンであった宇都宮郡造は、腸が煮えくり返る想いを押し殺して、二人を結婚させた。
その時に卓に問答無用の条件を呑ませた。
将来、政治家になることだった。
「もしもし、亨ですが・・・」
京都地検の五郎の事務所から、亨は東京の議員会館にいる岳父の卓に電話で指示を仰いだ。
「わかりました。それでは指示を待っています」
受話器を下ろした亨は、五郎に向かって言った。
「平岡雄仁は今日中に自首させますが、逮捕状はもう発行されたのですか?」
身構えた態度の亨に対して、五郎は苦笑いしながらも丁寧に返事をした。
「いえ、まだ何の手続きも取っていません・・・」
『二条城から戻って来たところで一体何ができると言うんだ!』
心の中で呟く五郎だったが、亨のやり口は熟知していた。
32年前のことが、再び蘇ってきた。
「わたし亨さんの子供を身篭ったの・・・」
容子が五郎に申し訳なさそうに言った。
『容子は俺の女だ!』
容子に対して自信を持っていた五郎だった。
『何故だ!』
全身から絞り出すような悲鳴に似た己への叫びであった。
亨は貧しい家庭に育った所為で、自己保存欲が人一倍強く、その反動で他人への態度は殆ど建前だけで接する性癖が身についていた。
所謂人当たりが良い人間の典型だ。
決して相手が不快に思うような言動はしない。
人間という生き物は自己分裂の極みであり、それが他の生き物と決定的に違う要因である。
知性と言う言葉で人間の優位性を表現するなら、まさしく人間は知性の生き物であって、断じて知恵の生き物ではない。
亨は見事に容子の外堀を我慢強く埋めていった。
内側では五郎が容子を陵辱し尽くしているのを眺めながら、亨は忍耐強く外堀を埋めていったのが、遂に功を奏したのだ。
しかし、そんな亨の感性には愛という言葉はまったくなかった。
それを見抜けなかった容子は、やはり女だ。
容子に暴力の限りを尽くしてきた五郎だったが、容子の捨て台詞で、感性の糸が切れてしまった。
オスは、暴力で自己の感性を相手のメスに知らせる生き物だ。
それが自然循環の掟であることを、他の生き物たちは熟知している。
野生とは暴力であることを。
人間のメスも且ては知っていたようであるが、今はこの掟を完全に忘却の彼方に追いやってしまったようである。
五郎は、容子の告白を聞いた瞬間、一種の悟りを開いたような気分になった。
目の前にいる小椋亨の表情を見て、容子の顔とラップさせていた五郎は言った。
「それじゃ、平岡雄仁が今日中に自首するなら、逮捕状はしばらく様子を見てからにしよう」
五郎は亨に対して、敢えて検事の立場を離れて言った。
亨は内心ほくそ笑んだ。