第百四話 三十二年前の思い出

小椋亨が平岡雄仁の弁護士になったことを聞いた五郎は、32年前のことを思い出していた。
森五郎と小椋亨は茨木高校 の同級生だった。
「俺は法律の勉強をして将来政治家になろうと思っている・・・」
五郎が亨に授業の合間の休憩時間に言った。
亨は五郎とは同級生であっても、彼に憧れの気持ちを抱いていた。
学業においても、スポーツにおいても群を抜く、五郎の素質に一目も二目も置いていたからである。
「じゃあ、俺も政治家になる!」
亨は躊躇うことなく言い放った。
十分に大人になっていた五郎であったら、自己を見失った亨の言動に注意を促すこともできたかも知れない。
32年前のことを思い出しながら、五郎はため息をついた。
「じゃあ、俺の言う通りにするか?」
他人に決して言ってはならない言葉というものがある。
それは他人の人生を自分のものにする言葉だ。
「僕は君を一生幸せにする」
「わたしはあなたに一生ついていきます」
男と女の不幸はこの言葉から始まる。
五郎は言ってはいけないことを言ってしまった。
十分に大人になっていた亨であったら、自己を見失った五郎の言動に注意を促すこともできたかも知れない。
「ああ、もちろんだ!」
こうしてふたりは学生運動の真只中に入っていった。
京都大学法学部に入学した五郎と亨は、一見親友を超えた盟友同士のように思われたが、動機の明確さの違いが、線路の切り替えポイントから逸れて行き、ふたりの関係に、徐々に距離が生じていたのである。
しかし、運命というものは皮肉なものである。
法律学科の専門過程に入ると、ふたりは司法試験に挑戦することになったのだが、普段の成績では圧倒的に優れている五郎よりも、亨の方が先に合格してしまったのである。
自尊心を傷つけられた五郎は、学生運動からきっぱり足を洗って試験勉強に集中しはじめた。
しかし、亨は五郎のそんな心変わりに気がつかずに、学生運動に明け暮れていた。
その時、ふたりの人生を決定的にする女性が現れたのである。
五郎は、平岡雄仁が今日5月5日に釈放されることを、京都地検の自分の席で書記官から聞いて、急いで地検の前の立売通りから烏丸通りを抜けて堀川通りに出た。
そこへ、パトロールカーのサイレンが近くで聞こえた。
「二条城で何か起こったんだ!」
五郎は夢中で走った。
京都という町は、どこまでも独自のやり方を通すようである。
法曹界の集中しているのが、立売通りである。
まるで、西陣や祇園と同じ感覚で法曹界も位置づけられている。
すべての街並みが碁盤目模様であるように、碁石の色合いも碁盤目に合わせて配置されている。
立売界隈と長者町界隈の間の法曹界の碁盤目がある。
長者町にも上と下があり、立売町にも上と下がある。
どこまでも上下をはっきりしたがる京都の伝統の面目が、街の風景にも滲み出ている。
立売通りを夢中で駆け抜けた五郎が、烏丸通りを抜け、二条城が面している堀川通りに出た時には、大勢の野次馬たちが既にたむろしていた。
野次馬たちの中を、五郎はやっとくぐり抜けた。
「どうかしたんですか?」
五郎が、観光客に訊いた。
「気狂いが、日本刀を振り回して暴れているんです!」
五郎は、京都の春の真っ青な空を見上げて黙っていたが、徐に騒ぎの中心の方に歩いて行った。
『小椋亨も一緒にいる筈だ・・・』
司法試験を学生時代に合格したのを利用して、苦学生であった亨は学費と生活費を稼ぐために、京都髄一の名門、青木・赤井・黒田法律事務所でアルバイトをした。
五郎は学生時代の小椋亨のことを思い出していた。
『亨は、何故、生活苦の中でも自由法曹団の弁護士グループに入ったんだろうか?あのまま京都髄一の名門、青木・赤井・黒田法律事務所の弁護士になっていれば、一生贅沢して暮らせるだけの収入を得られた筈なのに・・・』
思いを巡らせていると、初老の姿をした小椋亨が、五郎の目の前に現れた。
「検事の立場でやって来たのかね?」
亨は表情ひとつ変えずに、五郎に言った。
しかし挑発的な亨の言葉にも五郎は乗らなかった。
「いいや、パトロールカーのサイレンがけたたましく鳴っていたので、様子を見にやって来ただけだ」
五郎は嘘をついた。
検察庁の書記官から、平岡雄仁が不起訴処分で釈放されたことを聞いて、五郎は推論を張り巡らせたのである。
まわりを見渡した五郎だが、平岡雄仁の姿が見えない。
「平岡雄仁はどうしたのかね?」
詰問するような口調の五郎に、亨は二条城の正門の方にやった視線で返事をした。
「キャッ!」
視線のやった方角から悲鳴の声が響いて来た。
「ははっはは!」
雄仁の笑い声が更に響いて来た。
五郎と亨は、突嗟に同じ方向に走り出した。
雄仁の笑い声が、地獄の二幕目開始の拍子木になっていたことを、『今、ここ』を共有するふたりは知るべくもなかった。