第百三話 検事・森五郎

雄仁は、二条城の前を走り抜けて、堀跡の角地までやって来ると、突然うしろを振り返った。
弁護士の小椋亨が追いかけて来るのを確かめるためである。
弁護士は頭で仕事をする職業だけに、突嗟の身体の反射神経を必要とするような行動パターンには、からっきし無能だ。
拘置所で雄仁と面会している時の冷静沈着さは完全に陰を潜めて、ただただ慌てふためき、必死に慣れぬ格好で走る姿を哂していた。
二条城の堀跡の前で、老人が刀市を開いているのを見つけた雄仁が、近づいて行った。
真っ白な顎髭をたくわえた刀市の老人が、雄仁の異常な様子に気がついた。
「なんじゃなあ、お前さんは?」
老人の一言が地獄の一幕目開始の拍子木になった。
「ギャッ!」
老人の片腕が肩の根元から斬り落とされていた。
その様子を見ていた観光客の中から悲鳴があがった。
倒れて気を失っている老人の傍に、血がしたたり落ちたままの刀を手にした雄仁が立っていた。
「しまった!」
現場に駆けつけた亨が絞り出すような声で言った。
誰かが、警察に通報したらしく、間もなくパトロールカーのサイレンのけたたましい音が近づいてきた。
亨は迷った。
サイレンの音のする方向を確かめながら、雄仁の様子を窺っている。
『弁護士が考えるようなことではない!』
自分に言い聞かせるように、口の中で吐き捨てた。
亨が、雄仁の刀を持っている方の腕を掴もうとすると、呆然としていた雄仁の目が、再び輝きだした。
「キャッ!」
女性の叫び声がした。
雄仁の腕の中で抱きかかえられている郁子が発した叫び声だった。
雄仁は郁子を抱えたまま、あとずさりしようとした矢先に、3人の制服を着た警官がやって来た。
「刀を捨てろ!」
ひとりの警官が雄仁に命令するように言った。
雄仁の目が再び輝いた。
「ウグッ!」
沈み込むような鈍い音がした。
警官の右目に刀が刺さっていて、その束を雄仁が握ったままだった。
「道をあけろ!」
雄仁が他のふたりの警官に怒鳴った。
「おまえ!二条城の中まで案内しろ!」
臆病そうな表情をした警官の方に、白羽の矢をたてたのだ。
雄仁と郁子そして警官がひと塊になって、二条城正面の門から突入する構えだ。
「義幹(よしもと)をタクシーの中においたままです。どうかあの子を・・・」
郁子が雄仁に嘆願した。
「どくんだ!」
野次馬が現場を囲んで、黒山のような人だかりとなっている中に向かって雄仁は叫んだ。
そしてタクシーの傍まで近づいた雄仁が、運転手に言った。
「その子と一緒に出て来るんだ!」
二条城周辺は騒然としだした。
「どうかしたんですか?」
サラリーマン風の初老の男が、観光客に訊いた。
「気狂いが、日本刀を振り回して暴れているんです!」
観光客から事情を聞いた男は、京都の春の真っ青な空を見上げて黙っていたが、徐に騒ぎの中心の方に歩いて行った。
その男の名前は森五郎。
京都地方検察庁の検事であった。