第百二話 弁護士・小椋亨

「手続きは全部済ませました。これであなたは晴れて自由の身です」
小椋亨が雄仁に小包を手渡しながら言った。
小椋亨は、自由法曹団の弁護士だ。
京都大学法学部在学中に司法試験に合格した亨は、京都髄一の名門、青木・赤井・黒田法律事務所にアルバイトとして勤めていたことがある。
行く末は同事務所の期待の星と嘱望されていたのだが、大学を卒業すると自由法曹団に身を寄せるようになっていった。
高校生の時の親友が左翼思想に傾倒していく影響を受けたトラウマが原因で、彼も左翼思想にどっぷり浸かってしまったのだ。
自由法曹団というのは、所謂共産党系弁護士集団のことを言う。
バックに日本共産党という衆参合わせて数十名の代議士が控えていて、代議士の名の下に、政治的圧力を掛けてくる強力なシンジケート集団だ。
自由法曹団の弁護士が相手方についたというだけで、弱腰になる検察当局者も多いのだ。
事件が起きた時、亨は、平岡雄仁の学歴に興味を持った。
被告側から弁護士が名乗りを上げなかったら、司法当局自ら国選弁護士を、雄仁のためにつけなければならなかった。
事件が事件だけに、被告側の弁護士に名乗りを上げる者はいないであろうと、当局者も高を括っていた。
そこへ、自由法曹団の中でも、名うての小椋亨が自ら手を上げたのである。
亨は、雄仁との面談を一度もせずに、検察当局が不起訴処分せざるを得ない状況に追い込んでいったのである。
「帰る所はあるんですか?」
亨は親身になって、雄仁に訊いた。
「平岡雄仁は記憶喪失に陥っている」
亨のこの言葉と、医者の診断書が、京都地検の不起訴処分を決断させたのである。
身辺調査で、平岡雄仁の関係者は、わかっていたが、記憶喪失症になった雄仁に明かすことはしなかった。
「いえ、まったく何も憶えていません」
京都拘留所の門を出たところで、ポツリと雄仁は呟くように言った。
二人がタクシーを待っていると、藤原郁子が門から出てきた。
タクシーがなかなかやって来ないのを察して、亨が郁子に言った。
「ここはなかなかタクシーが来ません。よろしければご一緒しますか?」
赤ん坊を抱えた郁子は背に腹はかえられない想いで、つい頷いてしまった。
「何処まで行かれますか?」
タクシーの運転手に行き先を伝える前に、亨は郁子に訊ねた。
「できれば、京都駅まで行きたいのですが・・・」
「運転手さん、京都駅まで行ってください」
亨はそう言って、雄仁に目配せした。
烏丸通りを南下する途中で、左手に御所が見えて来た。
亨は雄仁の表情を窺っていたが、何の変化も見られなかった。
「運転手さん、丸太町通りに入ってくれませんか!」
亨は、突然思いついたように、タクシーの運転手に言った。
ハンドルを右に切った運転手は怪訝な表情を隠さなかった。
京都駅に行くなら、烏丸通りをまっすぐ南下すればいいのに、わざわざ丸太町通りを西側に行くのだから当然である。
「あのう、お客さん。国鉄の京都駅に行くんでしょう?」
敢えて客に問い直した運転手だったが、亨は黙って頷くだけだった。
丸太町通りを何処まで行っていいのか分からないまま不安そうに運転するのを、亨は察して、早めに次の指示をした。
「堀川通りに入って八条通りまで行ってください」
やっと安心した運転手は、ハンドルを構え直した。
丸太町通りから堀川通りに入ったタクシーが南下をはじめると、すぐに右側に二条城が見えてきた。
雄仁の様子を再び 窺った亨は驚いた。
目が潤んで異常に輝いている雄仁の様子に、郁子も気がついたらしい。
「運転手さん、ちょっと停まってください!」
雄仁が叫んだ。
車は金属音を発しながら、急停車した。
「バン!」
ドアーが開く音がした。
雄仁が飛び出して行ったのだ。
車の中に取り残されて呆然としていた亨が我に帰った。
「やっぱり!」
そう言い残して、亨も雄仁のあとを追いかけて行った。