第一話 山城

雄仁はハナが入院している病院に立ち寄った。
ハナはパーキンソン病に冒されてはいたが、他に別段悪い病気を持っているわけでもなく、のんびり暮らしていたのだが、急に様子がおかしくなり、救急車で病院に運ばれ集中治療室に入って早や2ヶ月近くが過ぎていた。
救急車で運ばれた日の検査の結果、末期の子宮癌であることが判明し、一週間の命だと医者に宣告された。
札幌に発つ予定だった雄仁は、急遽取りやめ、残された一週間をハナのために過ごそうと心に決め、仕事の帰りには必ずハナのいる病院に立ち寄ることにした。
12月24日のクリスマス・イヴの夜だった。
医者から、余命一週間と言い渡されたにも拘らず、ハナは生き続けた。
『オヒトちゃん。オヒトちゃん。あたしは、もう行っちゃうよ・・・。オヒト・・・』
夢の中でハナが呼んでいるのだ。
それから、どれだけ時が経ったのか判からなかったが、再びハナが夢枕の中に出てきた。
『オヒト。オヒト。早く来ておくれ!あたしは、もう行っちゃうよ・・・。オヒト・・・!』
目が醒めて時計を見ると、3が三つ並んでいた。
『正夢かもしれない!』
急いで着替えた雄仁は、車を飛ばしてハナのいる病院に向かった。
『神さま!どうか間に合いますように!神さま!』
無意識の中で叫んでいる自分に、ふと気がついた瞬間、『オヒト。オヒト。あたしは待っているから、大丈夫だよ・・・』と夢の続きが現れた。
夜中とは言え、クリスマス・イヴの夜だけに車の量は多かったが、記憶される経過がまったく記憶にない状態で運転をしている自分に不思議さを感じながら、もう一方の心の中は、時を超えようとする無駄な闘いの中に埋没していた。
気がついたのか、目が醒めたのか、判断がつかない状態の中で、病院に着いた雄仁は、救急窓口で事情を説明して、ハナのいる集中治療室に向かった。
集中治療室には、他に4人の患者がいて、夜中であるにも拘らず目が醒めている様子で、苦しそうにうなされていた。
ハナだけが、天井に目をやりながら雄仁がやって来るのを静かに待っていた。
「俺だよ!雄仁だよ!」
天井を凝視しているハナの目を覗きこむようにして言った。
救急車で運ばれて以来、意識を失ったままだったが、雄仁が目を見ながら喋ると、ハナは目で反応してくるのだ。
『わたしの声が届いたのだね!よかった!』
ハナは目で笑った。
『あたしは、もうダメ!死ぬのが怖い!』
ハナは目で訴えた。
「死ぬことはちっとも怖くなんかないんだよ!死ぬことは、お祝いごとなんだ!
お祝いごとがない限り、死ぬことなんてありはしないさ!」
耳元に口を近づけて、ハナに囁いた。
「だから、今日はお別れに来たんだ。これでもう会うことはないよ!」
その瞬間、大粒の涙がハナの頬を濡らした。
前のことが思い出された。
旅館の女中として勤めていたハナは、団体旅行の男たちに大広間で抑えつけられ、強姦された。
駆けつけた雄仁に、泣き叫びながら抱きついたハナは狂乱状態で、その後の出来事を殆ど憶えていなかったが、事の重大さは強姦程度で済まされるものではないことは充分承知していた。
雄仁は、その後東京の大学に入学することで、ハナの下を離れて行こうとしたが、ハナは何も言わなかった。
その後、東京の大学を中退した雄仁は、京都の仏教大学に編入して、京都に居を移したが、その時ハナが雄仁の下宿を訪問したことがある。
仙洞御所に二人で観光に行ったのが、雄仁とハナの男と女の関係の最後であった。
京都の大学を卒業した雄仁は、鹿苑寺通称金閣寺の修行僧として仏門の道に入った時期があったが、金閣寺の美しさに魅了されたものの、仏門の道には馴染めずにすぐに下俗して、呉服問屋に勤めに入った。
ハナが突然倒れたとの連絡を受けた雄仁は、久し振りのハナとの再開を病院の一室で果たした。
「前とまったく変わりませんね・・・」
ハナの若々しさは、以前とまったく変わりなかった。
「オヒトちゃんこそ・・・・」
そして、雄仁がパーキンソン病に冒されたハナの看病をする生活が始まった。
ふたりにとって、まるで夢のような時だった。
ハナは思い出していた。
「だから、今日はお別れに来たんだ。これでもう会うことはないよ!」
雄仁の言葉に、ハナは目で頷いた。
これがふたりの別離だった。
『本当に現実の出来事だったのだろうか?』
心の絆が分かたれたふたりが同時に思った。
それから暫くしてハナは逝ったが、雄仁はその時札幌にいて、その報せを受けるべくもなかった。