第五章 衣食住の足りた貧乏社会

第三章の冒頭でこう述べました。
人間社会では、貯金(蓄積)を多くしている(質的優位性)、一握り(数的劣位性)の人が、幸福な(質的優位性)お金持ちと呼ばれているわけです。
逆に言えば、
貯金(蓄積)がない(質的劣位性)、圧倒的多数(数的優位性)の人が、不幸な(質的劣位性)貧乏な人と呼ばれているわけです。
一方、
自然社会では、蓄積の概念は一切ありません。
つまり、
人間社会風に言えば、
自然社会では、お金持ちなど一切いないのです。
逆に言えば、
自然社会では、全員が貧乏なのです。
つまり、
自然社会では、貧富の差など一切ないのです。
言い換えれば、
自然社会では、貧富の概念などないのです。
だから、
お金持ちもいなければ、貧乏もいないのです。
ただし、
彼らは、自分たちが貧乏だとも思っていないし、ましてや、貧乏を悪いなどと一切思っていないのです。
結局の処、
自然社会は、
全員(数的絶対性=超対性)が、貯金(蓄積)がない(質的絶対性=超対性)、絶対幸福な(質的数的絶対性=超対性)貧乏と呼ばれている、絶対的平等社会に他ならないのです。
一方、
人間社会は、
貯金(蓄積)を多くしている一握りのお金持ち(質的優位性=数的劣位性)、

貯金(蓄積)がない圧倒的多数の貧乏な人(質的劣位性=数的優位性)、
で構成されている相対的不平等社会に他ならないのです。
まさに、絶対的平等自然社会と相対的不平等人間社会に他ならないのです。
では、
自然社会と人間社会ではどうしてこんなに違うのでしょうか?
まさに、
自然社会→人間社会は進化過程に他ならなかったのです。
しかも、
自然社会→人間社会→更なる進化が待ち受けているのです。
逆に言えば、
現在の人間社会が決して最終ゴールではないわけです。
そこで、
第五章では、わたしたち現代人が目差すべき社会を検証してみましょう。
そこで、
第三章の結論の件でこう述べました。
常に変わる(無常な)運動している映像に過ぎない富を追いかけてきたのです。
そして、
永遠に変わらない(不変な)静止している実在に他ならない貧を避けてきたのです。
まさに、
在りもしない映像を追い求め、現実に在る実在を避けてきたのです。
そして、
わたしたちの人生は無常なものだと教えられてきた。
つまり、
“人生は無常で移ろうもの”
それが真理だと教えられてきた。
果たしてそうでしょうか?
まさに、
二十一世紀の人間の最大のテーマがここにあります。
で締め括りました。
結局の処、
無常で移ろう人生など映像に過ぎなかったのです。
言い換えれば、
わたしたちが、いわゆる現実だと信じてきた世界など、しょせん、映像(映画・夢)に過ぎなかったのです。
そして、
永遠に変わらない(不変な)静止している実在の世界が、映像(映画・夢)の背後に、まさに、実在していたのです。
それが真理だったのです。
どうやら、
わたしたち人間は、錯覚の世界に迷い込んだようです。
ではなぜ、
錯覚の世界に迷い込むことが、進化過程と言えるのでしょうか?
まさに、
進化にも功罪両面があったことが、その証左に他なりません。
では、
絶対貧一元の自然社会にも、進化の功罪両面があったのでしょうか?
そこで、
功罪両面の本質を理解しなければなりません。
言い換えれば、
好い面(功的側面)と悪い面(罪的側面)が表出するのは、何事も二つに区分けする二元論の世界所以であることを理解しなければなりません。
従って、
功罪両面が表出するのは、相対貧富二元論の世界だけであるわけです。
言い換えれば、
何事にも功罪両面が表出するのが、人間社会の特性であることを理解することが極めて大事なのです。
平たく言えば、
人間社会には分かれ道(分岐点)が必ずあるのです。
つまり、
好いとこ取りの相対一元論の世界への道。
悪いとこ取りの相対一元論の世界への道。
の分かれ道(分岐点)に他なりません。
言うまでもなく、
更なる進化をするためには、
悪いとこ取りの相対一元論の世界への道。
を選ばなければならなかったのです。
まさに、
進化の功的側面を選ばなければならなかったのです。
ところが、
わたしたち人間は、
好いとこ取りの相対一元論の世界への道。
を選んでしまったのです。
まさに、
進化の罪的側面の道を選んでしまったのです。
ではなぜ、
好いとこ取りの相対一元論の世界への道が罪的側面、
であり、
悪いとこ取りの相対一元論の世界への道が功的側面、
なのでしょうか?
平たく言えば、
好いのが罪的側面、
であり、
悪いのが功的側面、
なのでしょうか?
まさに、
逆さま現象が起きています。
まさに、
わたしたち人間が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
つまり、
“お金持ち(富)が好くて、貧乏(貧)が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
ところが、
第三章の結論で述べた通り、
貧乏とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
言い換えれば、
貧(貧乏)が実在するもので、富(お金持ち)とは貧(貧乏)でない状態(単なる考え方)に過ぎなかったのです。
だから、
好いのが罪的側面、
であり、
悪いのが功的側面、
が真理だったのです。
だから、
好いとこ取りの相対一元論の世界への道が罪的側面、
であり、
悪いとこ取りの相対一元論の世界への道が功的側面、
が真理だったのです。
まさに、
わたしたち人間社会に逆さま現象が起きていたのです。
まさに、
わたしたち人間が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
つまり、
“お金持ち(富)が好くて、貧乏(貧)が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
貧乏とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“幸福が好くて、不幸が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
不幸とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“天国が好くて、地獄が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
地獄とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“神が好くて、悪魔が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
悪魔とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“賢者が好くて、愚者が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
愚者とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“強者が好くて、弱者が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
弱者とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“支配者(王様や天皇)が好くて、被支配者(奴隷や国民)が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
被支配者とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
“男性が好くて、女性が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
女性とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
そして最後の最期に、
“生が好くて、死が悪い”が当然だと信じてきた考え方が逆さまであった証左に他ならないのです。
なぜなら、
死とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったからです。
従って、
わたしたち人間が、
好いことと思ってきたことが、実は、悪いこと、
悪いことと思ってきたことが、実は、好いこと、
が本当だったのです。
まさに、
わたしたち人間社会に逆さま現象が起きていたのです。
そうしますと、
人類の祖先であるアダムとイブが、善悪の判断をする果実を食べた結果、エデンの園(自然社会)から追放された理由が、白日の下に晒されることになるわけです。
逆に言えば、
聖書に書かれている神が、アダムとイブには“善悪の判断をしては絶対ならない!”と教えておきながら、モーゼには“神や親を敬うことは善いこと”で、“殺す、姦淫する、盗むことは悪いこと”であるといった善悪の判断をするよう十戒で教えるといった矛盾も甚だしいことを起こしていた原因が、白日の下に晒されることになるわけです。
まさに、
矛盾も甚だしい聖書の教えを金科玉条のように信じ込んでいる人たちが、世界72億人の中に36億人以上(キリスト教徒22億人、イスラム教徒14億人、ユダヤ教徒5000万人)もいるのです。
そして、
彼ら同士で、3000年前からいまだに殺し合いをしているのです。
まさに、
自己矛盾も甚だしい教えを信じ込んでいる、彼らの錯覚が為せる業に他なりません。
ところが、
彼らは、そのことにまったく気づいておらず、“自分たち(こっち)だけが正しい”と思い込んでいるのです。
まさに、
わたしたち人間が、逆さま生きものであることの証左に他なりません。
では、
なぜ、
人類はこんな逆さま生きものになってしまったのでしょうか?
言うまでもなく、
人類が、好いとこ取りの相対一元論という、進化の罪的側面を選んでしまったからです。
逆に言えば、
人類が、悪いとこ取りの相対一元論という、進化の功的側面を選ばなかったからです。
なぜならば、
悪いとこ取りの相対一元論という、進化の功的側面こそが、実在の世界に繋がっているからです。
言い換えれば、
悪いとこ取りの相対一元論という、進化の功的側面こそが、更なる進化に繋がっているからです。
つまり、
進化の最終ゴールに進むことができるからです。
言い換えれば、
円回帰運動の終点に進むことができるからです。
まさに、
円回帰運動とは、始点→円周→終点で完結する。
そして、
円回帰運動の始点とは、静止(実在)の世界に他ならない。
そして、
円回帰運動の円周とは、運動(映像)の世界に他ならない。
そして、
円回帰運動の終点とは、静止(実在)の世界に他ならない。
従って、
円回帰運動とは、絶対貧一元論→相対貧富二元論→超対貧富三元論で完結することになるわけです。
そして、
超対貧富三元論に繋がる相対貧富二元論は、悪いとこ取りの相対一元論に他ならないのです。
なぜなら、
絶対貧一元論→相対貧富二元論→超対貧富三元論を貫く実在性を有しているのは、貧だからです。
平たく言えば、
自然社会(絶対貧一元論の世界)にも、
人間社会(相対貧富二元論の世界)にも、
宇宙全体(超対貧富三元論の世界)にも、
通用する観念(在り方)は、
(貧)にあって、
決して、
(富)にはないのです。
逆に言えば、
人間社会(相対貧富二元論の世界)だけに通用する概念(考え方)が、
(富)に他ならないわけです。
更に悪いことには、
わたしたち人間社会(相対貧富二元論の世界)は、
単なる概念(考え方=映像)である(富)を好いもの、
現に在る観念(在り方=実在)である(貧)を悪いもの、
と決め込んだわけです。
まさに、
わたしたち人間社会(相対貧富二元論の世界)に逆さま現象が起こってしまったのです。
厳密に言えば、
わたしたち人間社会に、相対貧富二元論の罪的側面である好いとこ取りの相対一元論の世界という逆さま現象が起こってしまったのです。
つまり、
無いものを好いものとして、
在るものを悪いものとする、
という二重の錯覚をしてしまったのです。
まさに、
自覚症状の無い音痴という、最も性質の悪い生きものになってしまった。
それが、
わたしたち人間であるわけです。
何はともあれ、
二十一世紀に生きる、わたしたち現代人は、
先ず、この事実を自覚しなければなりません。
ところが、
この事実を自覚することが不可能に近いぐらい難儀なのです。
なぜでしょうか?
そこで、
わたしたち人間社会に、相対貧富二元論の罪的側面である好いとこ取りの相対一元論の世界という逆さま現象が起こってしまった。
つまり、
無いものを好いものとして、
在るものを悪いものとする、
という二重の錯覚をしてしまった。
まさに、
自覚症状の無い音痴という、最も性質の悪い生きものになってしまった。
それが、
わたしたち人間である。
要するに、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
という考え方を人類は何の疑いもなく信じ込んできたからです。
言い換えれば、
親から子へと代々、この考え方をほとんど信念として、教え込まれてきたからです。
まさに、
信念とは、疑う余地のない考え方に他ならない。
だから、
この考え方が、実は、逆さまであることを自覚することが、ほとんど不可能に近いぐらい難儀なことなのです。
なぜならば、
親から、何の固定観念も持たずに、この考え方を教え込まれてきた子は、疑う余地もなく、更に、自分の子へ引き継いでいくわけです。
従って、
先ず、
わたしたち人間ひとり一人が、
もの心ついた頃から持ち合わせ、疑う余地もなかった、自分の信念が逆さまであったことを自覚することからはじめなければなりません。
ところが、
この自覚することが極めて難儀なのです。
なぜならば、
わたしたち人間は、二重の錯覚をしているからです。
平たく言えば、
わたしたち人間は、自覚症状のない音痴の状態で生きているわけです。
つまり、
先ず、
自分が音痴であることを自覚する。
そして次に、
音痴を治す。
ことによって、わたしたち人間が、逆さま生きものであることを自覚することが可能になるわけです。
そこで、
自分が音痴であることを自覚するには一体どうしたらいいのでしょうか?
それは、
もの心ついた頃から持ち合わせ、疑う余地もなかった、自分の信念を無条件で疑ってかかることに他なりません。
言い換えれば、
自分を全面否定することに他なりません。
これが、
第一のステップです。
つまり、
“自分の信じてきたものはすべて勘違いだった”
という発想から、人生をはじめなければなりません。
そして、
第二のステップに入ることができます。
つまり、
音痴をいよいよ治す作業です。
この第一、第二のステップを通してはじめて、逆さま生きものであったことを
わたしたち人間は自覚することが可能になるわけです。
そこで、
音痴という病気にも二種類あります。
つまり、
全音痴と部分音痴があります。
全音痴とは、
ドからシまでの音階が全部外れている症状を指します。
部分音痴とは、
ドからシまでの音階の一部が外れている症状を指します。
ところが、
わたしたち人間は、残念ながら、全音痴です。
なぜならば、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
という考え方をすべて信じているからです。
一方、
部分音痴は、
“健康が好くて、病気が悪い”
という考え方には疑問を持っている。
なぜならば、
健康とは、病気の不在概念であって、病気なくして健康などあり得ないことを知っているからです。
ところが、
“富(お金持ち)が好くて、貧(貧乏)が悪い”
という考え方は信じて疑っていないわけです。
まさに、
部分音痴に他なりません。
従って、
全音痴を治せるかどうかは、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
という考え方をすべて疑ってかかることに掛かっているのです。
一方、
部分音痴を治せるかどうかは、
“健康が好くて、病気が悪い”
という考え方に疑問を持っているのですから、健康と病気の本質について更に深く理解することができるかに掛かっているのです。
つまり、
健康と病気は表裏一体の関係に過ぎない。
従って、
健康と病気は同じものである。
言い換えれば、
健康と病気は二律背反するものではなくて、補完し合うものであるからして、健康=病気である。
従って、
健康を追い求めれば、病気も一緒についてくる。
若しくは、
病気から逃げれば、健康も一緒に逃げていく。
ことを理解することが重要なのです。
更に、
病気が実在するもので、
健康は病気のない状態(病気の不在概念=考え方)に過ぎないことを理解することが、何にも増して重要なのです。
従って、
わたしたち人間は、
病気が実在するもので、健康は病気のない状態(病気の不在概念=考え方)に過ぎないことを理解することによって、全音痴から、先ず、部分音痴まで回復することからはじめなければなりません。
つまり、
“健康が好くて、病気が悪い”
という考え方は錯覚であることを先ず自覚する。
そして、
全音痴から部分音痴まで回復したら、
健康は病気のない状態(病気の不在概念=考え方)に過ぎないことを理解したのですから、
次に、
富(お金持ち)は貧(貧乏)でない状態(貧(貧乏)の不在概念=考え方)に過ぎないことを理解することまで進化することが重要になってきます。
つまり、
貧(貧乏)が実在するもので、富(お金持ち)は貧(貧乏)でない状態(貧(貧乏)の不在概念=考え方)に過ぎないことを理解することまで進化することが重要になってきます。
まさに、
『貧乏のすすめ』が真理であることの証左に他なりません。
では、
実在する貧(貧乏)の本質とは一体何でしょうか?
まさに、
貧(貧乏)とは、蓄積(貯金)の無い状態に他なりません。
まさに、
自然社会の生きものは、蓄積(貯金)の無い状態で生きている。
言い換えれば、
自然社会の生きものは、今日の糧だけ求めて生きている。
逆に言えば、
自然社会の生きものは、明日の糧(蓄積)など求めて生きていない。
これが事実であり、真理であるのです。
この真理を人間社会に当て嵌めれば、
わたしたち人間が、
蓄積(貯金)の無い状態で生きるということは、衣食住だけ足りた生き方をすることに他ならないのです。
まさに、
衣食住の足りた貧乏社会こそが、わたしたち人間社会が更に進化するための目差すべき社会なのです。
そうすれば、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
という考え方が錯覚であることを自覚できるようになるわけです。
つまり、
全音痴から部分音痴を経由して、音痴を治すことができるわけです。
その時はじめて、
わたしたち人間社会は、
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会から脱却できるのです。
そして、
わたしたち人間社会から、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖がなくなるのです。
差別・不条理・戦争がなくなるのです。
まさに、
音痴であることを自覚し、全音痴から部分音痴に改善し、最後に、音痴を治すには、『今、ここ』を生き切ることしか道はないのです。
逆に言えば、
過去・現在・未来という、いわゆる時間(物理学で云う心理学的時間の矢)に想いを馳せる生き方と決別するしか道はないのです。
平たく言えば、
富(お金持ち)を追い求める生き方から、貧(貧乏)を楽しむ生き方に変わるしか道はないのです。