第三章 貧乏は進化過程

人間社会では、貯金(蓄積)を多くしている(質的優位性)、一握り(数的劣位性)の人が、幸福な(質的優位性)お金持ちと呼ばれているわけです。
逆に言えば、
貯金(蓄積)がない(質的劣位性)、圧倒的多数(数的優位性)の人が、不幸な(質的劣位性)貧乏な人と呼ばれているわけです。
一方、
自然社会では、蓄積の概念は一切ありません。
つまり、
人間社会風に言えば、
自然社会では、お金持ちなど一切いないのです。
逆に言えば、
自然社会では、全員が貧乏なのです。
つまり、
自然社会では、貧富の差など一切ないのです。
言い換えれば、
自然社会では、貧富の概念などないのです。
だから、
お金持ちもいなければ、貧乏もいないのです。
強いて言えば、
自然社会では、全員が貧乏なのです。
ただし、
彼らは、自分たちが貧乏だとも思っていないし、ましてや、貧乏を悪いなどと一切思っていないのです。
結局の処、
自然社会は、
全員(数的絶対性=超対性)が、貯金(蓄積)がない(質的絶対性=超対性)、絶対幸福な(質的数的絶対性=超対性)貧乏と呼ばれている、絶対的平等社会に他ならないのです。
一方、
人間社会は、
貯金(蓄積)を多くしている一握りのお金持ち(質的優位性=数的劣位性)、

貯金(蓄積)がない圧倒的多数の貧乏な人(質的劣位性=数的優位性)、
で構成されている相対的不平等社会に他ならないのです。
まさに、絶対的平等自然社会と相対的不平等人間社会に他ならないのです。
では、
自然社会と人間社会ではどうしてこんなに違うのでしょうか?
人間社会も自然社会の一部であることには誰も異論はないでしょう。
つまり、
人間も動物の一種であり、自然社会とは鉱物・植物・動物で構成されている地球自体であることに異論をさし挟む人はいないでしょう。
だから、
人間も他の動物から進化してきた生きものだと言えるわけです。
言い換えれば、
人間は万物の霊長だと言えるわけです。
つまり、
地球を構成している鉱物・植物・動物という生きものの中で、一番進化しているのが人間だと言うことになるわけです。
その結果、
自然社会は絶対的平等自然社会、
人間社会は相対的不平等人間社会、
という違いが生じたのです。
つまり、
絶対的平等自然社会が進化すると、相対的不平等人間社会になるのです。
まさに、
人類がエデンの園(自然社会)から追放されて、エデンの東に人間社会をつくったという聖書の話は、人類が進化して新しい社会をつくったことを象徴している話に他ならなかったのです。
ところが、
聖書では、
人類は罪を冒してエデンの園を追放されたと表現しています。
これは、
人類が進化したのではなく、人類は退化したという捉え方をしているわけです。
つまり、
善悪の判断をする果実を食べることは、自然社会(エデンの園)では罪だと聖書の神は考えていたことになります。
従って、
人類は進化したのか?
人類は退化したのか?
鍵はここにありそうです。
そこで、
地球上に存在する物質は、鉱物・植物・動物で構成されています。
そして、
鉱物から植物、
植物から動物、
と進化してきました。
更に、
動物の中でも、
原生動物(単細胞動物から多細胞動物)から魚類、
魚類から両生類、
両生類から爬虫類、
爬虫類から哺乳類、
と進化してきました。
更に、
哺乳類の中でも、
ネズミ科、イヌ科、ネコ科、サル科
と進化して、
霊長類の一種である人類と進化してきたのです。
まさに、
わたしたち人間が万物の霊長と自負する所以がここにあるのです。
従って、
人類は間違いなく進化しているのです。
ところが、
聖書では、
人類は罪を冒してエデンの園を追放されたと表現しています。
これは、
人類が進化したのではなく、人類は退化したという捉え方を聖書はしているわけです。
つまり、
善悪の判断をする果実を食べることは、自然社会(エデンの園)では罪だと聖書の神は考えていたことになります。
つまり、
キリスト教やイスラム教やユダヤ教といった聖書を教義とする宗教では、人類は進化したのではなく、退化したことになります。
まさに、
宗教の欺瞞性が証明されたことになります。
なぜならば、
キリスト教やイスラム教やユダヤ教の教義である聖書に書かれている神は、
善悪の判断をすることは罪だと考えているから、アダムとイブをエデンの園(自然社会)から追放したわけです。
ところが、
キリスト教やイスラム教やユダヤ教のみならず、すべての宗教は、
善を好いこと、悪を好くないことと判断しているわけです。
まさに、
汝の神は我のみ!
汝父母を敬え!
汝殺すなかれ!
汝姦淫するなかれ!
汝盗むなかれ!
汝嘘つくなかれ!
まさに、
善行をするべし!
悪行をするべからず!
と教えているのです。
自己矛盾も甚だしいわけです。
それでは、
なぜこんな自己矛盾が宗教に起こったのでしょうか?
結局の処、
宗教も科学も相対二元論に過ぎないからです。
言い換えれば、
自然社会が絶対一元論の世界。
人間社会が相対二元論の世界。
と区分けしているのです。
ところが、
森羅万象すべては、
絶対一元論から相対二元論に進化するだけではなく、
相対二元論から超対三元論に更に進化するのです。
従って、
貧絶対一元論
貧富相対二元論
貧富超対三元論
が進化の完結過程に他ならないのです。
従って、
みんなが貧しい状態が、本来の在り方である自然社会のことを、貧絶対一元論の世界と言うわけです。
そして、
みんなが貧しい状態の中から、最も進んだ(進化した)生きもの、つまり、人類が、貧しいみんなの状態から抜け出そうとした。
つまり、
貧しい状態から抜け出すということは、貧しくない状態を模索することに他なりません。
そこで、
貧しいとは、一体どんな状態であるかを、人類は考えた。
つまり、
最も進化した生きものとは、考える力を持ったことに他ならなかった。
そして、
貧しい状態とは、蓄えの無い状態であることを発見したわけです。
そこで、
蓄えの有る状態を、富と考え出したのです。
つまり、
蓄えの考えから、貧富二元の考えが誕生した瞬間です。
まさに、
貧絶対一元世界から、貧富相対二元世界の誕生です。
まさに、
人類がエデンの園(貧絶対一元世界の自然社会)から、エデンの東にあるノドという町(貧富相対二元世界の人間社会)に追放された瞬間です。
では、
エデンの園(貧絶対一元世界の自然社会)とエデンの東にあるノドという町(貧富相対二元世界の人間社会)では、一体どんな違いがあったのでしょうか。
原点に戻れば、
エデンの園(貧絶対一元世界の自然社会)は、善悪の判断を一切しない社会である。
一方、
エデンの東にあるノドという町(貧富相対二元世界の人間社会)は、何事も善悪の判断をする社会である。
言い換えれば、
支配(富)・被支配(貧)二層の区分けが一切ない社会と、支配(富)・被支配(貧)二層の区分けがある社会との違いに他ならないわけです。
まさに、
貧富相対二元世界の人間社会だけに、
支配・被支配二層構造の区分け社会がある所以です。
その結果、
支配・被支配二層構造の区分けを強固にするために、
世襲・相続の差別制度が誕生したわけです。
逆に言えば、
貧絶対一元世界の自然社会には、
支配・被支配二層構造の区分けが一切ない社会である所以です。
従って、
支配・被支配二層構造の区分けを強固にする必要がないために、
世襲・相続の差別制度など不要なわけです。
更に詳細に言えば、
貧富相対二元世界の人間社会だけに、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖がある所以です。
逆に言えば、
貧絶対一元世界の自然社会には、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖が一切ない所以です。
その結果、
貧富相対二元世界の人間社会だけに、
差別・不条理・戦争が発生するのです。
逆に言えば、
貧絶対一元世界の自然社会には、
差別・不条理・戦争は一切ないのです。
まさに、
わたしたち人間の一生、つまり、人生におけるいろいろな問題の根本原因は、貧富相対二元の考え方にあったことがわかってきます。
しかし、
貧富相対二元にも功罪両面があります。
言い換えれば、
貧富相対二元世界も進化過程に他ならない証明です。
言うまでもなく、
貧富相対二元世界の功的側面は、文明に他なりません。
他方、
貧富相対二元世界の罪的側面が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖で代表される、人生におけるいろいろな問題に他なりません。
すなわち、
人生におけるいろいろな問題とは、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生。
そして、
差別・不条理・戦争を繰り返す人間社会。
そして、
これらの問題の根本原因とは、
支配・被支配二層構造の人間社会。
更に、
支配・被支配二層構造を強固なものにする方便としての、
世襲・相続の差別制度。
更に、
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。
宗教と科学。
とトライアングルを構成しているオス社会。
まさに、
貧富相対二元世界の罪的側面を要約してみると、
オス社会。
宗教と科学。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。
これらを頂点とするトライアングル構造が生み出すのが、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生。
そして、
差別・不条理・戦争を繰り返す人間社会。
ということになるわけです。
従って、
貧富相対二元世界の功的側面としての文明社会。
一方、
貧富相対二元世界の罪的側面としての、
オス社会。
宗教と科学。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生。
差別・不条理・戦争を繰り返す人間社会。
まさに、
貧富相対二元世界の正体がここにあるのです。
従って、
人生におけるいろいろな問題とは、
貧富相対二元世界の罪的側面に他ならなかったのです。
では、
貧富相対二元世界では、
オス社会。
宗教と科学。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生。
差別・不条理・戦争を繰り返す人間社会。
から脱却することはできないのでしょうか?
そこで、
功罪両面の本質を理解することが重要です。
言い換えれば、
宇宙の法則が本質を理解する鍵なのです。
つまり、
宇宙の法則の一つに「対消滅」というものがあります。
平たく言えば、
すべての物質は正と負(反)に区分けされる。
そして、
正物質と負(反)物質が衝突すると両方とも消滅して新しい物質が誕生する。
平たく言えば、
オスとメスが交尾して子供が誕生するのも「対消滅」現象の一つに他なりません。
従って、
貧富相対二元世界の功罪両面が「対消滅」すれば、罪的側面は消滅します。
その代わり、
貧富相対二元世界の功的側面も消滅するのは当然の帰結です。
つまり、
文明社会も消滅するのは当然の帰結です。
まさに、
知的文明社会の終焉に他なりません。
言い換えれば、
無知原始社会との「対消滅」現象が先ず起こり、その後に新しい脱知的文明社会が誕生する。

そこで、
知的文明社会と無知原始社会の違いとはどんなものでしょうか?
本質的には、
知的文明社会と無知原始社会は、正物質と負(反)物質との関係に他ならないのです。
平たく言えば、
知的文明社会と無知原始社会は、まったく正反対の要素をそれぞれが持っているわけです。
それでは、
知的文明社会と無知原始社会それぞれが持っている正反対の要素を検証していきましょう。
まさに、
文字通り、知的文明社会と無知原始社会という正反対です。
言い換えれば、
知的な文明世界と、無知な非文明世界という正反対です。
まさに、
人間社会と、自然社会という正反対です。
結局の処、
エデンの園(自然社会)と、エデンの東にあるノドという町(人間社会)とは正反対の関係にあったのです。
従って、
エデンの園(自然社会)は、
メス社会。
宗教も科学もない社会。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別がない社会。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれない社会。
差別・不条理・戦争のない社会。
一方、
エデンの東にあるノドという町(人間社会)は、
オス社会。
宗教と科学のある社会。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別がある社会。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる社会。
差別・不条理・戦争のある社会。
まさに、
自然社会(地球)と人間社会とは、正反対の関係に他ならなかったのです。
では、
正反対の関係にある自然社会(地球)と人間社会は、どちらが正社会で、どちらが反社会なのでしょうか?
そこで、
正物質と反物質の特性を知らなければなりません。
言い換えれば、
正社会と反社会の特性を知らなければならないわけです。
つまり、
正物質と反物質とは一枚のコインの表と裏の関係にある。
従って、
一枚のコインだから、その質(本質)は一つです。
平たく言えば、
金のコインなら、表面も裏面も金でできています。
銀のコインなら、表面も裏面も銀でできています。
逆に言えば、
表面が金で、裏面が銀のコインなど絶対にありません。
表面が銀で、裏面が金のコインなど絶対にありません。
若しもあれば、
そのコインはメッキした偽のコインです。
従って、
正社会と反社会も、その質(本質)は一つです。
では、
どちらが本質を有しているのでしょうか?
逆に言えば、
本質を有している方が正社会であるわけです。
言い換えれば、
知的文明社会と無知原始社会では、どちらが本質を有しているかということになります。
そこで、
前述したように、
知的文明社会とは、貧富相対二元世界のことです。
一方、
原始無知社会とは、貧絶対一元世界のことです。
では、
貧絶対一元世界と貧富相対二元世界では、どちらが本質を有しているかということになります。
従って、
絶対一元の貧。

相対二元の貧と富。
の本質について検証してみましょう。
そこで、
本質とは、一体どんなものでしょうか?
言い換えれば、
本質とは、実在するものに他なりません。
では、
実在するものとは、一体どんなものでしょうか?
つまり、
実在するものとは、永遠なるものです。
そして、
永遠なるものとは、変わらない(不変な)ものです。
そして、
変わらない(不変な)ものとは、静止しているものです。
従って、
本質とは、永遠に変わらない(不変な)静止している実在に他ならないのです。
一方、
本質と正反対のものとは、一体どんなものでしょうか?
言うまでもなく、
本質と正反対のものとは、実在でないものに他なりません。
つまり、
実在でないものとは、映像に他なりません。
では、
映像とは、一体どんなものでしょうか?
つまり、
映像とは、永遠ではないものです。
そして、
永遠でないものとは、常に変わる(無常な)ものです。
そして、
常に変わる(無常な)ものとは、運動しているものです。
従って、
本質でないものとは、常に変わる(無常な)運動している映像に他ならないのです。
ところが、
わたしたちの人生は無常なものだと教えられてきました。
つまり、
“人生は無常で移ろうもの”
それが真理だと教えられてきました。
果たしてそうでしょうか?
そこで、
本質とは、
永遠に変わらない(不変な)静止している実在に他ならない。
一方、
本質でないものとは、
常に変わる(無常な)運動している映像に他ならない。
そうすると、
貧絶対一元世界と貧富相対二元世界では、どちらが本質を有しているでしょうか?
では、
絶対一元の貧。
相対二元の貧と富。
両者が持つ共有点とは、どちらでしょうか?
言うまでもなく、
貧と貧・富の共有点は貧に他なりません。
従って、
貧が本質を有していることになります。
つまり、
貧が、永遠に変わらない(不変な)静止している実在に他ならないことになります。
一方、
富が、常に変わる(無常な)運動している映像に他ならないことになります。
そうすると、
わたしたちの人生は無常なものだと教えられてきた。
つまり、
“人生は無常で移ろうもの”
それが真理だと教えられてきた。
果たしてそうでしょうか?
まさに、
二十一世紀の人間の最大のテーマがここにあります。
もう一度言います。
わたしたちの人生は無常なものだと教えられてきた。
つまり、
“人生は無常で移ろうもの”
それが真理だと教えられてきた。
だから、
常に変わる(無常な)運動している映像に過ぎない富を追いかけてきたのです。
そして、
永遠に変わらない(不変な)静止している実在に他ならない貧を避けてきたのです。
まさに、
在りもしない映像を追い求め、現実に在る実在を避けてきたのです。
その結果、
富を追い求め、貧を避けてきたのです。
まさに、
幸福を追い求め、不幸を避けてきたのです。
天国を追い求め、地獄を避けてきたのです。
神を追い求め、悪魔を避けてきたのです。
賢者を追い求め、愚者を避けてきたのです。
強者を追い求め、弱者を避けてきたのです。
支配者を追い求め、奴隷(被支配者)を避けてきたのです。
男性社会(オス社会)を追い求め、女性社会(メス社会)を避けてきたのです。
そして、
生を追い求め、死を避けてきたのです。
こういった本末転倒の考え方を、
好いとこ取りの相対一元論と称しています。
まさに、
悪いとこ取りの相対一元論とは正反対の関係に他ならなかったのです。
言い換えれば、
絶対一元論と相対二元論とは正反対の関係に他ならなかったのです。
そうすると、
わたしたちの人生は無常なものだと教えられてきた。
つまり、
“人生は無常で移ろうもの”
それが真理だと教えられてきた。
果たしてそうでしょうか?
まさに、
二十一世紀の人間の最大のテーマがここにあります。
まさに、
貧乏とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
言い換えれば、
不幸とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
地獄とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
悪魔とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
愚者とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
弱者とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
奴隷(被支配者)とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
女性社会(メス社会)とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。
そして、
死とは、人類の更なる進化に欠かせない要素だったのです。