第二十章 『今、ここ』だけにある貧乏社会

わたしたち人間だけが、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥った。
そして、
その原因をつくった張本人は科学に他なりません。
そして、
その原因をつくった張本人は宗教に他なりません。
なぜならば、
科学や宗教が主張する説は、
ビッグバンが宇宙のはじまりであり、時間のはじまりである。
言い換えれば、
運動宇宙が宇宙のはじまりである。
更に言い換えれば、
運動宇宙が実在である。
これは一体何を意味しているのでしょうか?
結局の処、
“はじめに光ありき”に他ならないわけです。
まさに、
アインシュタインが主張した、光よりも速いものはないとする特殊相対性理論に他ならないわけです。
一方、
宗教が主張する説は、
“はじめに言葉ありき”である。
言い換えれば、
“はじめに光ありき”である。
まさに、
科学も宗教も主張する説は、
光が実在であるわけです。
まさに、
科学も宗教も主張する説は、
運動が実在であるわけです。
まさに、
科学も宗教も主張する説は、
映像が実在であるわけです。
科学も宗教も自己矛盾も甚だしいわけです。
そして、
わたしたち人間は、
科学という客観的事実と、宗教という主観的真理を、金科玉条のごとく信じ込んでいるわけです。
その結果、
わたしたち人間は、
過去・現在・未来という時間は、人知を超えた神的存在であり、支配(制御)されても、支配(制御)することは不可能だと信じ込んでいるわけです。
それなら、
わたしたち人間は、
過去・現在・未来に想いを馳せても仕方ないわけです。
ところが、
わたしたち人間は四六時中、過去・現在・未来に想いを馳せて生きているのです。
まさに、
宗教と科学が張り巡らした罠がここにあるのです。
まさに、
わたしたち人間は四六時中、
想いを馳せても仕方ない過去・現在・未来に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
何時(When?)でもいるようで、何時(When?)もいない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
わたしたち人間は、
何処(Where?)でもいるようで、何処(Where?)にもいない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
わたしたち人間は、
何故(Why?)かわかるようで、何故(Why?)かわからない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
わたしたち人間は、
何のため(For what?)かわかるようで、何のため(For what?)かわからない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
わたしたち人間は、
如何に(How?)かわかるようで、如何に(How?)かわからない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
まさに、
わたしたち人間が、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)とする質問は、
答えのない質問に他ならない証左がここにあるのです。
言い換えれば、
神など存在しない証左に他なりません。
わたしたち人間が、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)とする質問は、
無意味以外のなにものでもない証左なのです。
まさに、
光が実在であると主張する、
科学も宗教もペテン以外の何者でもないのです。
まさに、
運動が実在であると主張する、
科学も宗教もペテン以外の何者でもないのです。
まさに、
映像が実在であると主張する、
科学も宗教もペテン以外の何者でもないのです。
まさに、
夢が実在であると主張する、
科学も宗教もペテン以外の何者でもないのです。
まさに、
映像の世界が現実であると主張する、
科学も宗教もペテン以外の何者でもないのです。
それでは、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥るのは当たり前です。
前述したように、
わたしたち人間だけが、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きている。
逆に言えば、
わたしたち人間だけが、
『今、ここ』という実在する空間で生きることができなくなったのです。
まさに、
科学が主張する客観的事実、
と、
宗教が主張する主観的真理、
は表裏一体の一枚のコインに他ならなかったのです。
言い換えれば、
客観的事実と主観的真理は補完関係に他ならなかったのです。
言い換えれば、
科学と宗教は補完関係に他ならなかったのです。
平たく言えば、
科学と宗教は同じ穴の狢に他ならなかったのです。
ところが、
わたしたち人間は、
客観的事実と主観的真理は二律背反関係だと錯覚して生きてきました。
ところが、
わたしたち人間は、
科学と宗教は二律背反関係だと錯覚して生きてきました。
だから、
科学は宗教を否定し、
宗教は科学を否定してきたのです。
その結果、
まさに、
科学も宗教も、
光が実在であると主張しているのです。
まさに、
科学も宗教も、
運動が実在であると主張しているのです。
まさに、
科学も宗教も、
映像が実在であると主張しているのです。
まさに、
科学も宗教も、
夢が実在であると主張しているのです。
まさに、
科学も宗教も、
映像の世界が現実であると主張しているのです。
従って、
科学が主張する客観的事実と宗教が主張する主観的真理では、
映像の世界が現実に他ならない。
科学が主張する客観的事実と宗教が主張する主観的真理では、
夢が実在に他ならない。
なぜならば、
科学が主張する客観的事実と宗教が主張する主観的真理では、
運動が実在と主張しているからです。
なぜならば、
科学が主張する客観的事実と宗教が主張する主観的真理では、
光が実在と主張しているからです。
まさに、
主観的真理である映像の世界=夢の世界
と、
客観的事実である運動の世界=光の世界
が手を結んだわけです。
そして晴れて、
映像の世界=夢の世界=運動の世界=光の世界という自己矛盾を正統化したわけです。
そして晴れて、
神は、
宗教の世界のみならず、科学の世界でも正統化されたわけです。
その結果、
神とは人知を超えた存在になったのです。
そして、
わたしたち人間は四六時中、
想いを馳せても仕方ない過去・現在・未来に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
何時(When?)でもいるようで、何時(When?)もいない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
何処(Where?)でもいるようで、何処(Where?)にもいない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
何故(Why?)かわかるようで、何故(Why?)かわからない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
何のため(For what?)かわかるようで、何のため(For what?)かわからない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
如何に(How?)かわかるようで、如何に(How?)かわからない神に想いを馳せて生きる羽目に陥ったわけです。
それでは、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥るのは当たり前です。
そして、
その結果、
わたしたち人間だけが、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きているのです。
従って、
わたしたち人間だけは、
『今、ここ』という実在する空間で生きるしか道はないのです。
そして、
『今、ここ』という実在する空間では、貧乏が実在なのです。

『清貧な生き方』−完−