第十八章 時間の概念がない貧乏社会

わたしたち人間は、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)と常に自問して生きている。
そして、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)とする自問は、
過去。
若しくは、
未来。
に対してのみ為し得るものである。
逆に言えば、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)とする自問は、
『今、ここ』
に対しては為し得ないものである。
ところが、
わたしたち人間が、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
とする質問は、
答えのない質問に他ならない。
平たく言えば、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
とする質問は、
無意味以外のなにものでもない。
これは一体何を意味しているのでしょうか?
まさしく、
わたしたち人間は、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きていることを意味しているのです。
しかも、
過去・現在・未来という、いわゆる時間は、実は「時間」ではなく、「光景(空間)」だったわけです。
更に最悪なのは、
現代物理学、天文学では、
過去・現在・未来という、いわゆる時間を、わたしたち人間が生きている三次元空間世界を支配する四次元要因と決めつけ、四次元「時空の世界」としているわけです。
まさに、
わたしたち人間を支配している四次元時間が、過去・現在・未来というわけです。
ところが、
何時(When?)、
とする質問は、
答えのない質問に他ならない。
平たく言えば、
何時(When?)、
とする質問は、
無意味以外のなにものでもない。
ところが、
わたしたち人間は、
何時(When?)と常に質問して生きている。
まさに、
自己矛盾も甚だしい生き方をしているわけです。
従って、
わたしたち人間が、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きている原因が、この自己矛盾も甚だしい生き方にあったのです。
なぜならば、
何時(When?)、
とする質問は、
答えのない質問に他ならないからです。
平たく言えば、
何時(When?)、
とする質問は、
無意味以外のなにものでもないからです。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥るのは当たり前です。
なぜならば、
わたしたち人間は、
何時(When?)と寝ても覚めても、質問して生きている。
ところが、
何時(When?)、
とする質問は、
答えのない質問に他ならない。
平たく言えば、
何時(When?)、
とする質問は、
無意味以外のなにものでもない。
だから、
わたしたち人間は、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きる羽目に陥ったのです。
そこで、
よくよく考えてみれば、その原因がわかってきます。
前述したように、
現代物理学、天文学では、
過去・現在・未来という、いわゆる時間を、わたしたち人間が生きている三次元空間世界を支配する四次元要因と決めつけ、四次元「時空の世界」としている。
まさに、
わたしたち人間を支配している四次元時間が、過去・現在・未来というわけです。
そして、
わたしたち人間は、
近代社会以降、
この科学的事実が絶対だと信じているのです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
この客観的事実が絶対だと信じているのです。
それでは、
わたしたち人間だけが、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きる羽目に陥るのは当たり前です。
そして、
一般相対性理論が、
無意味且つ実在しない過去・現在・未来という時間を、わたしたち人間が生きる三次元空間世界の上に四次元要因として崇め置いたわけです。
まさに、
わたしたち人間だけが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥った原因をつくった張本人は一般相対性理論に他ならないのです。
言い換えれば、
一般相対性理論が、
過去・現在・未来という時間を、人知を超えた存在、つまり、神の位置に置いたわけです。
まさに、
人知を超えた存在とは、
人間にはわからない存在に他ならない。
言い換えれば、
人知を超えた存在とは、
答えのない無意味なもの、つまり、過去・現在・未来という時間に他なりません。
だから、
拙著「神はすぐ傍」で、人間が空間で、神が時間と書いたのです。
更に最悪なのは、
わたしたち人間は、
特に中世社会以降、
この宗教的真理が絶対だと信じているのです。
言い換えれば、
わたしたち人間は、
この主観的真理が絶対だと信じているのです。
それでは、
わたしたち人間だけが、
過去・現在・未来という、いわゆる無意味且つ実在しない時間に振りまわされて(支配されて)生きる羽目に陥るのは当たり前です。
まさに、
わたしたち人間だけが、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥る原因をつくった張本人は宗教に他ならないのです。
そして、
わたしたち人間に、
宗教と科学が張り巡らした罠とは、
人間が三次元空間世界であり、
神が四次元時空間世界である、
としたことに他なりません。
だから、
ローマ・バチカン(カトリックの本山)は1951年、
宇宙のはじまりであり、時間のはじまりがビッグバンであるとした現代科学説を自ら喜んで受けいれたのです。
まさに、
科学と宗教が同じ穴の狢である証明がここにあるのです。
そして、
彼らが共通して主張するキーワードが、
「時間」が「空間」を支配している。
言い換えれば、
「神」が「人間」を支配している。
まさに、
「神」とは、支配者側の味方に他ならない。
まさに、
「時間」とは、支配者側の味方に他ならない。
従って、
被支配者側の貧乏な一般のわたしたち人間にとっては、
時間のない貧乏社会しか道はないのです。