第十六章 悩みや四苦八苦のない貧乏社会

わたしたち人間が、
何時(When?)、
死について知ったのか?
何時(When?)、
死ぬのか?
つまり、
何時(When?)とする質問は、
過去。
若しくは、
未来。
に対してのみ為し得るものです。
逆に言えば、
何時(When?)とする質問は、
『今、ここ』
に対しては為し得ないものなのです。
従って、
何時(When?)という質問は、
答えのない質問に他なりません。
平たく言えば、
何時(When?)という質問は、
無意味以外のなにものでもありません。
従って、
わたしたち人間が、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死について知ったのか?
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死ぬのか?
つまり、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
とする質問も、
過去。
若しくは、
未来。
に対してのみ為し得るものです。
従って、
逆に言えば、
わたしたち人間が、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死について知ったのか?
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死ぬのか?
つまり、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
とする質問も、
『今、ここ』
に対しては為し得ないものなのです。
従って、
わたしたち人間が、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死について知ったのか?
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死ぬのか?
つまり、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
とする質問は、
答えのない質問に他なりません。
平たく言えば、
わたしたち人間が、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死について知ったのか?
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
死ぬのか?
つまり、
何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
とする質問は、
無意味以外のなにものでもありません。
ところが、
わたしたち人間は、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)と常に質問して生きています。
つまり、
わたしたち人間は、
四六時中、自問しながら生きているわけです。
よくよく考えてみると、
朝目が覚めた瞬間(とき)から、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
と自問することによって一日の表の人生がはじまる。
そして、
夜眠りに就く瞬間(とき)まで、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
と自問することによって一日の表の人生がおわる。
更に、
夜眠りに就いた瞬間(とき)から、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
と自問することによって一日の裏の人生がはじまる。
そして、
朝目が覚める瞬間(とき)まで、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
と自問することによって一日の裏の人生がおわる。
まさに、
わたしたち人間は、
四六時中、自問しながら生きているわけです。
まさに、
表の人生が六、
そして、
裏の人生が四、
の割合が一日の人生であるわけです。
まさに、
目が覚めている一日の表の人生が16時間、
そして、
眠っている一日の裏の人生が8時間、
の割合の一日の人生を自問して生きているわけです。
これは一体何を意味しているのでしょうか?
先ず、
死を知ったわたしたち人間だけが、
一日を表の人生と、裏の人生に区分けしている。
ところが、
この区分けが意味がない。
という自己矛盾が生じている。
更に悪いことには、
この自己矛盾に気づいていない。
つまり、
せっかく死を知ったわたしたち人間ですが、
死を知った意味をまったく理解できていないわけです。
結局の処、
知るということの意味を理解していないわけです。
平たく言えば、
せっかく唄を歌うことを知ったのに、音痴で、更に、音痴であることを自覚していないのです。
まさに、
せっかく唄を歌うことを知ったわたしたち人間ですが、
自覚症状のない音痴に成り下がっていたのです。
そして、
自覚症状のない音痴に成り下がった原因が、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)と、無意味に、一日中、自問して生きている点にあるのです。
更に、
一日を、表の人生と、裏の人生に無意味に区分けしている。
では、
せっかく死を知ったわたしたち人間なのに、こういった自己矛盾が何故生じたのでしょうか?
言い換えれば、
せっかく唄を歌うことを知ったわたしたち人間なのに、自覚症状のない音痴に何故成り下がってしまったのでしょうか?
つまり、
唄を歌えることの効用を理解していないからです。
つまり、
死を知ったことの効用を理解していないからです。
では、
唄を歌えることの効用とは一体何でしょうか?
それがわかれば、
死を知ったことの効用とは一体何かがわかるはずです。
では、
唄とは一体何者なのでしょうか?
そこで、
唄とは、言葉(詩)と音(メロディー)で構成されています。
つまり、
言葉(詩)は、意思(知性=thinking)の伝達の方便です。
一方、
音(メロディー)は、感情(感性=feeling)の伝達の方便です。
従って、
言葉(詩)と音(メロディー)で構成されている唄は、知性(thinking)と感性(feeling)の伝達の方便なのです。
言い換えれば、
言葉(詩)と音(メロディー)で構成されている唄は、情緒(emotion)の伝達の方便なのです。
つまり、
情緒(emotion)とは、知性(thinking)と感性(feeling)を超越したものに他なりません。
言い換えれば、
情緒(emotion)とは、相対二元論と絶対一元論を超越したものに他ならない。
従って、
情緒(emotion)とは、超対三元論に他なりません。
平たく言えば、
言葉(詩)で言えば、
詩自体が絶対一元論に他ならない。
詩の意味が相対二元論に他ならない。
そして、
詩の行間が超対三元論に他ならない。
音(メロディー)で言えば、
音階自体が絶対一元論に他ならない。
音階の意味が相対二元論に他ならない。
そして、
音階の裏が超対三元論に他ならない。
そこで、
自然社会の生きものは、
音(メロディー)だけを伝達する。
つまり、
感性(feeling)だけを伝達する。
つまり、
自然社会の生きものは、
言葉を持っていない。
つまり、
感性(feeling)を持っているだけで、
知性(thinking)を持っていません。
一方、
わたしたち人間だけが、
言葉(詩)と音(メロディー)を伝達することができる。
つまり、
知性(thinking)と感性(feeling)を伝達することができる。
言い換えれば、
情緒(emotion)を伝達することができる。
つまり、
わたしたち人間だけが、
言葉を持っているのです。
つまり、
知性(thinking)と感性(feeling)を持っているのです。
つまり、
情緒(emotion)を持っているのです。
これは一体何を示唆しているのでしょうか?
では、
自然社会の生きものは、何のために、音(メロディー)を伝達しているのでしょうか?
言うまでもなく、
交尾をするためです。
つまり、
子孫保存行為をするためです。
では、
わたしたち人間だけが、何のために、言葉(詩)と音(メロディー)を伝達できるのでしょうか?
言うまでもなく、
交尾以外の目的があるためです。
つまり、
子孫保存行為以外の目的があるためです。
まさに、
唄を歌えることの効用とは、
子孫保存行為以外の目的にあったのです。
では、
交尾意外の目的とは一体何でしょうか?
言い換えれば、
子孫保存行為以外の目的とは一体何でしょうか?
まさに、
“食うか食われるか”=自然社会
であるのに対して、
“生きるか死ぬか”=人間社会
であることに注目しなければなりません。
つまり、
“食うか食われるか”=自然社会
では子孫保存行為が唯一絶対要件であるわけです。
一方、
“生きるか死ぬか”=人間社会
では愛情行為が子孫保存行為よりも優先するわけです。
言い換えれば、
子孫保存行為が進化した形が愛情行為であるわけです。
従って、
人類のみならず、他の生きものも進化すれば、子孫保存行為が愛情行為に進化していきます。
まさに、
わたしたち人間だけが、何のために、言葉(詩)と音(メロディー)を伝達するのか?
その答えは、
子孫保存行為から愛情行為に進化するために他なりません。
言い換えれば、
わたしたち人間だけが、
唄を歌えることの効用とは、
愛情行為の発露に他ならないのです。
従って、
性行為とは、自然社会では交尾に他ならない。
言い換えれば、
性行為とは、自然社会では子孫保存行為に他ならない。
一方、
性行為とは、人間社会では愛情行為に他ならない。
そして、
愛情行為に基づく性行為とは、二人の個別の人間が一体感(全体感)を感じる行為に他なりません。
まさに、
愛情行為に基づく性行為とは、部分観で生きているわたしたち人間が、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会に他なりません。
まさに、
過去・現在・未来という時間の概念で生きるようになったわたしたち人間は、『今、ここ』という時間の観念で生きることができなくなり、地球との一体感(全体感)を失ってしまった結果、部分観で生きるようになった。
まさに、
わたしたち人間だけが、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥った原因は、部分観で生きるようになったからに他なりません。
逆に言えば、
わたしたち人間も、
自然社会の生きものや人間の子供のように、一体感(全体感)で生きることができたら、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目にはならないのです。
ところが、
愛情行為に基づく性行為は、部分観で生きているわたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれるのです。
わたしたち人間だけが、何のために、言葉(詩)と音(メロディー)を伝達するのか?
その答えは、
わたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれるのです。
まさに、
唄を歌えることの効用とは、わたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれることに他ならないのです。
更に、
死を知ったわたしたち人間だけが、
一日を表の人生。

一日を裏の人生。
に区分けしている。
ところが、
この区分けに意味がない。
という自己矛盾が生じている。
更に悪いことには、
この自己矛盾に気づいていない。
なぜならば、
一日の表の人生。
つまり、
朝目が覚める瞬間(とき)から、夜眠りに就いた瞬間(とき)までの、目が覚めている人生。
一方、
一日の裏の人生。
つまり、
夜眠りに就いた瞬間(とき)から、朝目が覚める瞬間(とき)までの、眠っている人生。
結局の処、
この二つの一日の裏表の人生は、何の違いもないのです。
なぜならば、
どちらの一日の人生も、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)と、無意味に自問して生きていることに変わりないからです。
ところが、
わたしたち人間は、
一日の表の人生が、目が覚めている人生。
一日の裏の人生が、眠っている人生。
と区分けしている。
これは一体何を示唆しているのでしょうか?
結局の処、
この二つの一日の裏表の人生は、何の違いもない。
この事実は極めて重要です。
まさに、
一日の表の人生。

一日の裏の人生。
とは、一枚のコインの裏表に他ならなかったわけです。
まさに、
一枚のコインの裏表を個別の世界と錯覚しているわけです。
そして、
一枚のコインの裏表を個別の世界と錯覚しているから、区分けしよう(別々に剥がそう)とするわけです。
つまり、
この錯覚こそ、個別観(部分観)に他ならない。
ところが、
裏表で一枚のコインになっているのですから、区分けしよう(別々に剥がしよう)がないわけです。
つまり、
この自覚こそ一体感(全体感)に他ならない。
まさに、
この錯覚と自覚が、
目が覚めている人生の中のいわゆる現実の世界と、眠っている人生の中の夢の世界が変わらないものであることの証明をしているのです。
まさに、
夢の世界=映像の世界=いわゆる現実の世界に他ならないのです。
まさに、
愛情行為に基づく性行為は、部分観で生きているわたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれる。
わたしたち人間だけが、何のために、言葉(詩)と音(メロディー)を伝達するのか?
その答えは、
わたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれる。
まさに、
唄を歌えることの効用とは、わたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれることに他ならない。
従って、
死を知ったことの効用とは、わたしたち人間に、一体感(全体感)に戻れる絶好の機会を与えてくれることに他ならない。
逆説的に言えば、
個別観(部分観)が、わたしたち人間に、死を知ったことの悪用の絶好の機会を与えていることに他ならない。
だから、
過去・現在・未来に想いを馳せる部分観の人生を送っている、わたしたち人間だけが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
逆に言えば、
『今、ここ』を生き切る全体感の貧乏な人生を送るなら、わたしたち人間も、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれない一生を送ることができるのです。