第十四章 死の恐怖のない貧乏社会

わたしたち人間だけが、死について知っているのは何故でしょうか?
つまり、
自分もいつかは死ぬということを知っているわけです。
しかし、
自分もいつかは死ぬということを知ったのは、子供の頃であって、生まれつき知っていたわけではありません。
なぜなら、
幼児期の子供は、死のことを知らないのがその証左です。
つまり、
わたしたち人間が、本能的に死を知っているわけではないのです。
まさに、
本能で生きている他の生きものが、死について知らない証左です。
従って、
わたしたち人間だけが、死について知っているのは紛れもない事実です。
では、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
わたしたち人間だけが、死について知ったのでしょうか?
この質問に対する答えを得られない限り、
わたしたち人間が、
“生が好くて、死が悪い”
という好いとこ取りの相対一元論の考え方から、脱却することはできない。
従って、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
という好いとこ取りの相対一元論の考え方からも、脱却することはできない。
つまり、
“生が好くて、死が悪い”
という好いとこ取りの相対一元論の考え方が、
はじめにあって、
だから、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
という好いとこ取りの相対一元論の考え方に派生していったわけです。
従って、
何時(When?)、何処で(Where?)、何故(Why?)、何のために(For what?)、如何に(How?)、
わたしたち人間だけが、死について知ったのでしょうか?
この質問に対する答えを得られない限り、
わたしたち人間社会は、
映像の世界から脱却することはできません。
では、
わたしたち人間だけが、
一体何時(When?)、死について知ったのでしょうか?
先ず、
この質問に対して明確に答えられる人はいないでしょう。
言い換えれば、
死ぬということだけは覚えているが、何時死ぬということを知ったかは覚えていないというわけです。
まさに、
記憶の内容は覚えているが、記憶した時間は覚えていない。
この事実は極めて重要です。
そして、
他の二元要因についても、同じことが言えるのです。
そこで、
先ず、
記憶というものの正体を検証してみましょう。
前述したように、
死を知ったわたしたち人間だけが、
死ぬということだけは覚えているが、何時死ぬということを知ったかは覚えていない。
まさに、
記憶の内容は覚えているが、記憶した時間は覚えていない。
これは一体何を示唆しているのでしょうか?
そこで、
わたしたちは、
記憶を時間と考えている点に注目しましょう。
たとえば、
青春時代の思い出。
つまり、
青春時代という時間が記憶の主人公だと思い込んでいる。
言い換えれば、
「過去」こそが、記憶の主人公だと思い込んでいる。
だから、
「過去」とは、時間だと思い込んでいる。
つまり、
過去=記憶=「時間」だと思い込んでいる。
ところが、
記憶の主人公は、
「青春時代」
ではなくて、
「思い出」
だったのです。
言い換えれば、
記憶の主人公は、
「時間」
ではなくて、
「光景(空間)」
だったのです。
この事実は極めて重要です。
そして、
もう一つ重大な事実があります。
死を知ったわたしたち人間ですが、
何時死ぬということを知ったかは覚えていない。
のみならず、
何時死ぬかも知らない。
という事実です。
つまり、
何時(When?)とは、
二つの意味を含んでいたわけです。
では、
二つの意味の正体は一体何者なのでしょうか?
つまり、
過去の何時(When?)
そして、
未来の何時(When?)
に他なりません。
従って、
死を知ったわたしたち人間ですが、
過去の何時(When?)、死を知ったのか?
未来の何時(When?)、死ぬのか?
については、何も知らないのです。
言い換えれば、
過去や未来のことは何も知らないのです。
逆に言えば、
知っているのは、『今、ここ』だけです。
ところが、
わたしたち人間は、
未来のことは知らない。
しかし、
過去のことは知っている。
と信じています。
まさに、
ここにわたしたち人間が錯覚している重大な落とし穴があるのです。
つまり、
過去・現在・未来は時間ではなく、光景(空間)だった事実です。
そこで、
死を知ったわたしたち人間ですが、
過去や未来のことは何も知らない。
逆に言えば、
知っているのは、『今、ここ』だけです。
ところが、
未来のことは知らない。
しかし、
過去のことは知っている。
と信じている。
つまり、
死は未来の出来事ではないということです。
言い換えれば、
死は『今、ここ』の出来事であるということです。
まさに、
ここにわたしたち人間が錯覚している重大な落とし穴がある証左です。
つまり、
「時間」という過去・現在・未来は何も知らない。
しかし、
「空間」という『ここ』はすべてを知っている。
前述したように、
青春時代の思い出。
つまり、
青春時代という時間が記憶の主人公だと思い込んでいる。
言い換えれば、
「過去」こそが、記憶の主人公だと思い込んでいる。
だから、
「過去」とは、時間だと思い込んでいる。
つまり、
過去=記憶=「時間」だと思い込んでいる。
ところが、
記憶の主人公は、
「青春時代」ではなくて、
「思い出」だった。
まさに、
ここにわたしたち人間が錯覚している重大な落とし穴があるのです。
つまり、
過去・現在・未来は時間ではなく、光景(空間)だった事実です。
そこで、
死を知ったわたしたち人間ですが、
過去や未来のことは何も知らない。
逆に言えば、
知っているのは、『今、ここ』だけです。
ところが、
未来のことは知らない。
しかし、
過去のことは知っている。
と信じている。
つまり、
死は未来の出来事ではないということです。
言い換えれば、
死は『今、ここ』の出来事であるということです。
まさに、
ここにわたしたち人間が錯覚している重大な落とし穴がある証左です。
つまり、
「時間」という過去・現在・未来は何も知らない。
しかし、
「空間」という『ここ』はすべてを知っている。
前述したように、
青春時代の思い出。
つまり、
青春時代という時間が記憶の主人公だと思い込んでいる。
言い換えれば、
「過去」こそが、記憶の主人公だと思い込んでいる。
だから、
「過去」とは、時間だと思い込んでいる。
つまり、
過去=記憶=「時間」だと思い込んでいる。
ところが、
記憶の主人公は、
「青春時代」ではなくて、
「思い出」だった。
まさに、
ここにわたしたち人間が錯覚している重大な落とし穴があるのです。
従って、
記憶の主人公は、
過去の「時間」
ではなくて、
『今、ここ』の「光景(空間)」
だった。
つまり、
「時間」という過去・現在・未来は何も知らない。
しかし、
「空間」という『ここ』はすべてを知っている。
これは一体何を示唆しているのでしょうか?
まさに、
映像の世界とは、実在の世界の映像に他ならないのです。
従って、
実在の世界なくして、映像の世界はない。
言い換えれば、
『今、ここ』の世界なくして、過去・現在・未来の世界はない。
まさに、
地球を汽車に例えれば、
汽車に乗っている旅人が、自分に他ならない。
自分が実在する『今、ここ』は、汽車の中の自分である。
一方、
窓外に見える光景(景色)が、自分以外の映像の世界である。
つまり、
過去・現在・未来の世界である。
まさに、
汽車に乗っている自分という『今、ここ』の世界なくして、
窓外に見える、過去・現在・未来という映像の世界はない。
従って、
何時(When?)、死について知ったのでしょうか?
つまり、
死を知ったわたしたち人間ですが、
過去の何時(When?)、死を知ったのか?
未来の何時(When?)、死ぬのか?
に対する解答は、
『今、ここ』という実在の世界の『今』に他ならないのです。
従って、
知っていることは、『今、ここ』の世界だけです。
だから、
実在の世界と言うわけです。
一方、
知らないことは、過去・現在・未来の世界です。
だから、
映像の世界と言うわけです。
従って、
死を知った唯一の生きものであるわたしたち人間が、
何時(When?)、死について知ったのか?
つまり、
死を知った唯一の生きものであるわたしたち人間が、
過去の何時(When?)、死を知ったのか?
未来の何時(When?)、死ぬのか?
この質問に対する答えは、
『今、ここ』にあったのです。
逆に言えば、
だから、
この質問に対して明確に答えられる人はいなかったのです。
つまり、
死を知った唯一の生きものであるわたしたち人間が、
何時(When?)、死について知ったのか?
つまり、
死を知った唯一の生きものであるわたしたち人間が、
過去の何時(When?)、死を知ったのか?
未来の何時(When?)、死ぬのか?
という質問自体が間違っていたのです。
これは一体何を意味しているのでしょうか?
まさに、
わたしたち人間が錯覚して生きてきた原因があるのです。
つまり、
死は『今、ここ』の出来事であるということです。
言い換えれば、
まさに、
死が突然襲ってくる所以は、死は『今、ここ』の出来事であるからです。
逆説的に言えば、
死を知ったわたしたち人間ですが、
未来の何時(When?)、死ぬのか?
がわからない所以は、
死は『今、ここ』の出来事であるからに他ならないわけです。
従って、
死を知ったわたしたち人間ですが、
過去の何時(When?)、死を知ったのか?
がわからない所以も、
死は『今、ここ』の出来事であるからに他ならないわけです。
まさに、
死は突然襲ってくる理由がここにあります。
まさに、
何時(When?)という質問は、
過去。
若しくは、
未来。
に対して為し得るものに他ならない証左です。
一方、
何時(When?)という質問は、
『今、ここ』
に対して為し得ないものに他ならない証左です。
更に厳密に言えば、
何時(When?)という質問は、
答えのない質問に他ならない証左です。
平たく言えば、
何時(When?)という質問は無意味に他ならない証左です。
この事実は極めて重要です。
ところが、
未来のことは知らない。
しかし、
過去のことは知っている。
と信じている、わたしたち人間は、
自分も何時か死ぬことは知っている、
しかし、
何時(When?)死ぬかは知らない、
といった自己矛盾に何の疑問も持たないで生きているのです。
まさに、
死を知ったわたしたち人間社会だけが、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる錯覚の一生。
差別・不条理・戦争を繰り返す錯覚の社会。
に成り果てた原因がここにあるのです。
従って、
“富(お金持ち)が好くて、貧(貧乏)が悪い”
という好いとこ取りの相対一元論の考え方から脱却できない限り、
わたしたち人間社会は、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる錯覚の一生。
差別・不条理・戦争を繰り返す錯覚の社会。
から脱却できません。
つまり、
死の恐怖のない貧乏社会しか道はないのです。