第十二章 世襲・相続制度のない貧乏社会

二十一世紀からの「死」の時代に、人間社会が存続するには、宗教と科学のない貧乏社会が登場するしか道はありません。
そうでなければ、
(1)地球規模若しくは宇宙規模の自然大災害に見舞われ、人類の数(人口)が適正数(3億から4億)に強制的に戻される可能性。
(2)唯一残った人類が共食い(差別・不条理・戦争)を起こすことによって、人類も破滅する可能性。
(3)核戦争勃発によって、生命体の存在し得ない地球になる可能性。
という相転移現象(誕生・生・死)の死のステージがやってくるわけです。
では、
相転移現象(誕生・生・死)の死のステージは、宇宙の法則である円回帰運動からして、絶対に避けられないのでしょうか?
言うまでもなく、
宇宙の法則である円回帰運動としての、誕生→生→死→誕生→生→死・・・は避けられません。
しかし、
第九章で述べたように、
円回帰運動の要因である誕生・生・死にはそれぞれの本質があることを理解しなければなりません。
つまり、
誕生には、絶対一元という本質がある。
生には、相対二元という本質がある。
死には、超対三元という本質がある。
更には、
生という相対二元の本質を、人間社会はまだ理解できずに錯覚している。
要するに、
二十世紀までは、
誕生→生→死→誕生→生→死・・・という円回帰運動の、誕生→生→死の狭間の「生」の出口の時代だったわけです。
二十一世紀は、
誕生→生→死→誕生→生→死・・・という円回帰運動の、生→死→誕生の狭間の「死」の入り口の世紀であるわけです。
つまり、
二十一世紀は、「生」の出口であり、「死」の入り口の世紀に他なりません。
そこで、
誕生には、絶対一元という本質がある。
生には、相対二元という本質がある。
死には、超対三元という本質がある。
従って、
二十一世紀は、
相対二元の世界の出口であり、
また、
超対三元の世界の入り口でもあるわけです。
まさに、
二十一世紀とは、
相対二元の世界と超対三元の世界の狭間(岐路)に他なりません。
では、
絶対一元の世界(始点=誕生)

相対二元の世界(円周=生)

超対三元の世界(終点=死)
という円回帰運動の中での相対二元の本質について検証してみましょう。
そこで、
円回帰運動は、
始点→円周→終点で完結します。
言い換えれば、
(静止)点→(運動)線→(静止)点で完結します。
つまり、
絶対一元の世界は、(静止)点の世界に他ならない。
相対二元の世界は、(運動)線の世界に他ならない。
超対三元の世界は、(静止)点の世界に他ならない。
従って、
相対二元の本質は、(運動)線にある。
言い換えれば、
相対二元の本質は、(動)画像にある。
まさに、
相対二元の本質は、(運動)線=(動)画像にある。
言い換えれば、
相対二元の本質は、二点の狭間(岐路)の(運動)線=(動)画像にある。
そこで、
円回帰運動は、
始点→円周→終点で完結する。
言い換えれば、
(静止)点→(運動)線→(静止)点で完結する。
つまり、
絶対一元の世界は、(静止)点の世界に他ならない。
相対二元の世界は、(運動)線の世界に他ならない。
超対三元の世界は、(静止)点の世界に他ならない。
従って、
相対二元の本質は、(運動)線にある。
言い換えれば、
相対二元の本質は、(動)画像にある。
まさに、
相対二元の本質は、(運動)線=(動)画像にある。
言い換えれば、
相対二元の本質は、二点の狭間(岐路)の(運動)線=(動)画像にある。
一方、
振り子運動は、
右端→支点(最下点)→左端で完結します。
言い換えれば、
(運動)線→(静止)点→(運動)線で完結する。
つまり、
絶対一元の世界は、(運動)線の世界に他ならない。
相対二元の世界は、(静止)点の世界に他ならない。
超対三元の世界は、(運動)線の世界に他ならない。
従って、
相対二元の本質は、(静止)点にある。
言い換えれば、
相対二元の本質は、(静止)実在にある。
まさに、
相対二元の本質は、(静止)点=(静止)実在にある。
言い換えれば、
相対二元の本質は、二点の狭間(岐路)の(静止)点=(静止)実在にある。
まさに、
円回帰運動と振り子運動は逆さまです。
まさに、
絶対一元の世界、超対三元の世界、

相対二元の世界、
とは逆さまです。
言い換えれば、
(静止)点の世界

(運動)線の世界
とは逆さまです。
つまり、
(静止)実在の世界

(動)画像の世界
とは逆さまです。
つまり、
円回帰運動における始点→円周→終点とは、
始点=終点=(静止)実在
そして、
円周=(動)画像
に他ならないのです。
言い換えれば、
始点・円周・終点で構成されている円の実在とは、
静止一点に他ならないのです。
まさに、
振り子運動の世界とは、円回帰運動の世界の映像世界に他ならなかったのです。
言い換えれば、
相対二元の世界とは、絶対一元の世界、超対三元の世界の映像世界に他ならなかったのです。
従って、
相対二元の世界の本質とは、映像世界に他ならなかったのです。
従って、
相対二元の世界の出口であり、
超対三元の世界の入り口でもある、
二十一世紀とは、
映像世界からの脱却世紀に他ならないのです。
では、
相対二元の映像世界とは、どんな世界でしょうか?
まさに、
我々人間が、いわゆる現実の世界と思い込んでいる人間社会です。
では、なぜ、
相対二元の世界が、映像の世界なのでしょうか?
まさに、
我々人間の、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
が当たり前だと信じている考え方こそが、相対二元論に他なりません。
では、なぜ、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
という考え方が、映像の世界の考え方なのでしょうか?
相対二元の世界が、映像の世界である所以がここにある。
つまり、
“・・・が好くて、・・・が悪い”
といった具合に、
“好いもの”と“悪いもの”と二つに区分けする考え方を相対二元論と言います。
そして、
“好いもの”を追い求め、“悪いもの”を忌み嫌うといった一方だけを取ろうとする考え方を好いとこ取りの相対一元論と言います。
現に、
わたしたち人間は、好いとこ取りの相対一元論の考え方で生きています。
ところが、
わたしたち人間が追い求める、
“好いもの”は何処にもありません。
一方、
わたしたち人間が忌み嫌う、
“悪いもの”は何処にもあります。
言い換えれば、
わたしたち人間が忌み嫌う、
“悪いもの”が実在する。
一方、
わたしたち人間が追い求める、
“好いもの”とは“悪いもの”のない状態、
つまり、
“悪いもの”の不在概念の映像に過ぎないのです。
現に、
わたしたち人間が追い求める、
“健康”は何処にもありません。
一方、
わたしたち人間が忌み嫌う、
“病気”は何処にもあります。
まさに、
わたしたち人間は、
何処にもない映像を追い求め、
何処にもある実在を忌み嫌って生きているのです。
まさに、
わたしたち人間が、好いとこ取りの相対一元論の映像の世界に生きている証明に他ならない。
その結果、
好いとこ取りの相対一元論の映像の世界に生きているわたしたち人間社会だけが、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生。
差別・不条理・戦争を繰り返す社会。
に成り果ててしまったのです。
そして、
その原点に、
“善が好くて、悪が悪い”
“オスが好くて、メスが悪い”
“強が好くて、弱が悪い”
“賢が好くて、愚が悪い”
“富が好くて、貧が悪い”
“幸福が好くて、不幸が悪い”
“天国が好くて、地獄が悪い”
“神が好くて、悪魔が悪い”
“支配者が好くて、被支配者が悪い”
“健康が好くて、病気が悪い”
そして、
“生が好くて、死が悪い”
という好いとこ取りの相対一元論の考え方があったのです。
まさに、
好いとこ取りの相対一元論とは、相対二元論の本質からも逸脱した考え方に他ならなかったのです。
つまり、
相対二元論の本質は、二元要因が補完関係にあるのに対して、
好いとこ取りの相対一元論の正体は、二元要因が二律背反関係にある。
平たく言えば、
一枚のコインの裏表(補完関係)が、相対二元論の本質であるのに対して、
一枚のコインの裏と表を別々に剥がそうとする土台な無理な話(二律背反関係)が、好いとこ取りの相対一元論の正体に他ならないのです。
まさに、
好いとこ取りの相対一元論とは、相対二元論の本質からも逸脱した考え方に他ならなかったのです。
だから先ず、
二十一世紀に生きるわたしたち現代人は、好いとこ取りの相対一元論から脱却しなければならないのです。
まさに、
相対二元の世界の出口であり、
超対三元の世界の入り口でもある、
二十一世紀とは、
映像世界からの脱却世紀に他ならないのです。
そして、
二元要因を二律背反関係と錯覚した、好いとこ取りの相対一元論の考え方を踏襲したわたしたち人間社会だけに、“支配者が好くて、被支配者が悪い”という考え方に基づく、支配・被支配二層構造のオス社会が誕生したのです。
更に悪いことには、
支配・被支配二層構造のオス社会は、メス(実在)の不在概念に過ぎないオスの正体ゆえ、世襲・相続の差別意識をも生んだのです。
なぜならば、
オスは、メスのように子供を産むことができないから、種の保存の主役にはしょせんなれず、子供に何かを与えなければ、自己の存在感が損なわれるからです。
まさに、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生。
差別・不条理・戦争を繰り返す社会。
の根源にあるのが、
支配・被支配二層構造の世襲・相続のオス差別社会に他ならないのです。
従って、
映像世界からの脱却世紀にしなければならない二十一世紀に生きるわたしたち人間には、
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別がない貧乏社会しか道はないのです。