第一章 貧乏の恩恵

お金持ちになればなるほど、死ぬのが怖くなります。
それは当然のことです。
なぜなら、お金持ちになると死が敵になるからです。
いくらお金がたくさんあっても、死がすべてを根こそぎにしてしまうのですから、お金持ちになればなるほど、死は憎き敵であって、死ぬのが怖くなるのは当たり前です。
逆に言えば、
貧乏になればなるほど、死ぬのが怖くなくなります。
なぜなら、貧乏になると死と友達になれるからです。
みなさんは、なぜ貧乏になるのが怖いのでしょうか?
貧乏になれば、食べる物がなくなるからでしょう。
貧乏になれば、住める家がなくなるからでしょう。
貧乏になれば、着れる服がなくなるからでしょう。
食べる物がなくなったらどうなるのでしょうか?
結局、死ぬ羽目になるからでしょう。
住める家がなくなったらどうなるのでしょうか?
結局、死ぬ羽目になるからでしょう。
着れる服がなくなったらどうなるのでしょうか?
結局、死ぬ羽目になるからでしょう。
これは一体何を意味しているのでしょうか?
貧乏になると、死が間近に迫っていることを意味しているのです。
貧乏になると、死が身近に迫っていることを意味しているのです。
つまり、
貧乏になることは、死と友達になれる絶好の機会なのです。
お金持ちでも、貧乏でも、死は平等にやってきます。
お金持ちになれば死から逃れられるなら、お金持ちの恩恵はありますが、お金持ちでも死は平等にやってくるなら、お金持ちにとって死は逆に厄事であり、貧乏にとって、死は逆に恩恵に他ならないのです。
死と敵対しても、お金持ちになる方を選ぶか?
貧乏になるけど、死と友達になる方を選ぶか?
ホスピスの患者が、死と直面して悟った25の項目があり、その中に、こういう項目があったそうです。
“如何に死を好いものと捉えるかに人生が掛かっていることを、死を目前に控えてはじめて気がついた”
つまり、
人生を精一杯生きることが、死を好いものと捉えることができるかどうかの鍵であったと、死と直面してはじめて悟ったわけです。
では、
人生を精一杯生きるとは一体どうしたらできるのでしょうか?
つまり、
人生を精一杯生きるとは、ベストを尽くして生きると言い換えてもいいでしょう。
ところが、
みなさんひとり一人は、“自分は精一杯生きている!”と言われるのではないでしょうか。
では、
“自分はベストを尽くして生きている!”と言えるでしょうか?
そう訊かれると、ほとんどの人は自信を持って、“自分はベストを尽くして生きている!”と言えないのではないでしょうか。
ではなぜ言えないのでしょうか?
『今、ここ』を生き切っていないからです。
言い換えれば、
過ぎ去った過去を悔やみ、未だ来ぬ未来に対する取り越し苦労をしているだけで、唯一何かをすることができる『今、ここ』を取り逃がしているからです。
では、
みなさんは、現在と『今、ここ』とはどこが違うのか?という疑問を持たれるでしょう。
そこで、
現在と『今、ここ』とが同じ代物であるなら、過ぎ去った過去を取り戻すことはできるし、未だ来ぬ未来を引き寄せることができるはずです。
なぜならば、
現在は、過去とも未来とも繋がっているからです。
逆に言えば、
『今、ここ』は過去とも未来とも繋がっていません。
まさに、
この違いが鍵なのです。
言い換えれば、
過去・(過去と繋がっている現在=未来と繋がっている現在)・未来では、わたしたちは何もできないのです。
何かできるのは、『今、ここ』だけです。
すなわち、
生きているということは、『今、ここ』だけを生きていることに他ならないのです。
従って、
過去・現在・未来に(想いを馳せて)生きているということは、本当に生きていることにはならないのです。
更に、
死ぬということは、『今、ここ』だけを死ぬことに他ならないのです。
従って、
過去・現在・未来に(想いを馳せて)死ぬということは、本当に死ぬことにはならないのです。
まさに、
人生とは、『今、ここ』しかないのです。
なぜならば、
人生とは、
生まれて(誕生)、生きて(生)、そして、死ぬ(死)、
つまり、
『今、ここ』の誕生・『今、ここ』の生・『今、ここ』の死に他なりません。
そして、
『今、ここ』の誕生・『今、ここ』の生・『今、ここ』の死は、お金持ち、貧乏に関係なく平等に与えられているのです。
この事実は一体何を意味しているのでしょうか?
誕生、生、死。
つまり、
生きものの一生は、絶対平等にできているということを意味しているのです。
ところが、
人間の一生、
つまり、
人生に関しては、絶対平等にはなっていない点があります。
つまり、
死に関して、不平等は一切ないことを、誰もが認めるところです。
ところが、
誕生、生に関しては、絶対平等にはなっていないわけです。
すなわち、
お金持ちの親の下に生れるか、貧乏の親の下に生まれるかで、子供の生に不平等が発生するわけです。
ところが、
最後の死に臨んでは、お金持ちの親の下に生まれて生きようが、貧乏の親の下に生まれて生きようが、平等の死がやってくるわけです。
言い換えれば、
人生の最初である誕生において不平等があり、人生の途中である生にまで不平等が及んでも、最後の死ではきっちり平等になるわけです。
この事実を不平等の優遇を受けている側の観点で表現するとどうなるでしょうか?
人生の最初である誕生において不平等の優遇を受け、人生の途中である生にまで不平等の優遇を受けても、最後の死ではきっちり平等の不遇を受けることになるのです。
一方、
この事実を不平等の不遇を受けている側の観点で表現するとどうなるでしょうか?
人生の最初である誕生において不平等の不遇を受け、人生の途中である生にまで不平等の不遇を受けても、最後の死ではきっちり平等の優遇を受けることになるのです。
この事実は一体何を意味しているのでしょうか?
つまり、
人生の最初である誕生、人生の途中である生に焦点を合わせた生き方をすると、
人生の最初である誕生において不平等の優遇、
人生の途中である生にまで不平等の優遇、
を享受することができるわけです。
その代わりに、
人生の最後である死において平等の不遇を受けるわけです。
一方、
人生の最後である死に焦点を合わせた生き方をすると、
人生の最後である死において平等の優遇、
を享受することができるわけです。
その代わりに、
人生の最初である誕生において不平等の不遇、
人生の途中である生にまで不平等の不遇
を受けることになるのです。
要するに、
人生の最後で平等の不遇を受けるか?
人生の最後で平等の優遇を受けるか?
従って、
人生の最初である誕生において不平等の優遇を受け、
人生の途中である生にまで不平等の優遇を受けても、
人生の最後で平等の不遇を受けるか?
まさに、
この生き方をする人がお金持ちに他ならないのです。
一方、
人生の最初である誕生において不平等の不遇を受け、
人生の途中である生にまで不平等の不遇を受けても、
人生の最後で平等の優遇を受けるか?
まさに、
この生き方をする人が貧乏な人に他ならないのです。
ところが、
わたしたち人間社会は、
お金持ちの生き方をするのが幸福な生き方だと信じているのです。
そして、
貧乏な人の生き方をするのが不幸な生き方だと信じているのです。
言い換えれば、
わたしたち人間社会は、
人生の最初である誕生において不平等の優遇を受け、
人生の途中である生にまで不平等の優遇を受けても、
人生の最後で平等の不遇を受ける、
そういう人の生き方を幸福な生き方だと信じているのです。
一方、
わたしたち人間社会は、
人生の最初である誕生において不平等の不遇を受け、
人生の途中である生にまで不平等の不遇を受けても、
人生の最後で平等の優遇を受ける、
そういう人の生き方を不幸な生き方だと信じているのです。
まさに、
お金持ちと貧乏な人の本質を見事に示唆しているのです。
逆に言えば、
わたしたち人間社会は、
お金持ちと貧乏な人の本質を逆さまに理解しているのです。
まさに、
貧乏が実在するもので、お金持ちは貧乏の不在概念に過ぎないのです。
言い換えれば、
貧乏が本来の姿であり、お金持ちは仮の姿なのです。
では、
本来の姿と、仮の姿とは、どこが違うのでしょうか?
つまり、
本来の姿とは、永遠に変わらない姿です。
言い換えれば、
実在とは、永遠に変わらないものに他ならないのです。
一方、
仮の姿とは、一時的な姿です。
言い換えれば、
仮の姿とは、ころころ変わるものに他ならないのです。
従って、
お金持ちは、一時的なものであって、永遠のものではないのです。
平たく言えば、
お金持ちは、いつか必ず貧乏になる。
だから、
お金持ちのお金に対する欲望は際限がないのです。
つまり、
1万円しか持っていない人間は自分を貧乏と思い、10万円持っている人間をお金持ちと憧れていますが、いざ自分が10万円持つと、100万円持っている人間を憧れるため、やはり、自分は貧乏と思うのです。
そして、
10万円しか持っていない人間は自分を貧乏と思い、100万円持っている人間をお金持ちと憧れていますが、いざ自分が100万円持つと、1000万円持っている人間を憧れるため、やはり、自分は貧乏と思うのです。
そして、
100万円しか持っていない人間は自分を貧乏と思い、1000万円持っている人間をお金持ちと憧れていますが、いざ自分が1000万円持つと、1億円持っている人間を憧れるため、やはり、自分は貧乏と思うのです。
この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?
結局の処、
お金持ちなど一人もいないのです。
つまり、みんな貧乏なわけです。
まさに、
貧乏が本来の姿であり、お金持ちは仮の姿である証左です。
まさに、
自然社会では、
お金持ちなど誰もいません。
そこで、
お金持ちの定義をしてみましょう。
現代のようなお金中心の社会では、貯金の多い人間のことを、お金持ちと呼んでいます。
1億2000万人の日本人の中で150万人しかいない、1億円以上貯蓄している人が、お金持ちと呼ばれているわけです。
72億6000万人の人口の中で800万人しかいない、1億円以上貯蓄している人が、お金持ちと呼ばれているわけです。
つまり、
貯金(蓄積)を多くしている人が、お金持ちと呼ばれているわけです。
ところが、
自然社会では、蓄積の概念は一切ありません。
つまり、
人間社会風に言えば、
自然社会では、お金持ちなど一切いないのです。
逆に言えば、
自然社会では、全員が貧乏なのです。
つまり、
自然社会では、貧富の差など一切ないのです。
言い換えれば、
自然社会では、貧富の概念などないのです。
だから、
お金持ちもいなければ、貧乏もいないのです。
強いて言えば、
自然社会では、全員が貧乏なのです。
ただし、
彼らは、自分たちが貧乏だとも思っていないし、ましてや、貧乏を悪いなどと一切思っていないのです。
逆に言えば、
人間社会だけが勝手に貧富の概念(考え方)をつくっただけのことです。
まさに、
貧乏が本来の姿であり、お金持ちは仮の姿である証左です。
従って、
貧乏こそ恩恵であり、お金持ちは苦厄に他ならないことを、わたしたち人間は自覚しなければなりません。