貧乏のすすめ
はじめに

2008年の日本の億万長者は150万人に達したそうです。
日本人100人に1人の割合で億万長者がいることになります。
そして、この150万人の億万長者が持っているお金の総額は、日本人1億2000万人が持っているお金総額の70%を占めていたのですが、それが、100年に一度の金融危機が起こった2008年9月15日以来、この1年間で、更に増えて、80%に迫ろうとしています。
一方、
世界に目を向けますと、800万人の億万長者がいるそうです。
およそ1000人に1人の割合で億万長者がいることになります。
やはり、この800万人の億万長者が持っているお金の総額は、当時の世界の全人口67億6000万人が持っているお金総額の70%を占めていたのですが、それが、100年に一度の金融危機が起こった2008年9月15日以来、この1年間で、更に増えて、80%に迫ろうとしています。
この現象は一体何を意味しているのでしょうか?
ますます、格差社会になっていることを示しているわけで、これからもその格差はさらに拡がっていくことを意味しているのです。
経済が良くなろうが、経済が悪くなろうが、世界はますます、格差社会、そして、超格差社会へと向かっている。
格差、つまり、貧富の差が、ますます拡がっている原因は、自由競争の資本主義の為せるわざだと主張し、平等を標榜する共産主義とのイデオロギーとの対決を生み、そして、東西冷戦という不幸を経験したにも拘わらず、世界で、依然、貧富の差が拡がっているのは、平等の共産主義が東西冷戦で敗北し、自由競争の資本主義が勝利した必然の結果だったのでしょうか?
それでは、
平等の共産主義が東西冷戦で勝利し、自由競争の資本主義が敗北したら、格差社会は解消されたでしょうか?
貧富の差が発生するのは、どうやら、単にイデオロギーの違いによってではなく、人間社会のもっと根本的な問題が潜んでいたのです。
人間社会の根本的な問題の一つに人口増加問題があることは否めないでしょう。
なぜなら、人間の数が増えれば増えるほど、お金持ちの数も増えるけれど、貧乏な人の数はその数百倍にもなるからです。
たとえば、
世界で1000人に1人の割合で億万長者がいるわけですから、お金持ちの人の割合は0.1%、お金持ちでない人は999人いるわけで、その割合は99.9%になります。
そうしますと、1人のお金持ちを増やすためには、999人のお金持ちでない人が増えなければならないのです。
まさに、人口が増えれば増えるほど、貧乏な人の数は数百倍に及ぶのです。
格差社会は人口増加問題が根本原因になっているのです。
超格差社会は人口急増問題が根本原因になっているのです。
貧富の差が発生する原因は、決して、イデオロギー問題、つまり、人間個人個人の考え方の違いではなく、人間自身の考え方に問題があることがわかってくるのです。
人間個人個人の考え方は、それぞれの人間の自由裁量ですが、人間自身の考え方には普遍(不変)的なものがあるのです。
そもそも、人間は貧乏である。
まさに、この考え方こそが人間自身の普遍(不変)的なものです。
まさに、“貧乏のすすめ”の発想はこの普遍(不変)的な考え方から湧き上がってくるものです。

平成21年11月18日   新 田  論


第一章 貧乏の恩恵
第二章 貧乏は進化過程
第三章 衣食住の足りた貧乏社会
第四章 差別・不条理・戦争のない貧乏社会
第五章 宗教・科学のない貧乏社会
第六章 世襲・相続制度のない貧乏社会
第七章 死の恐怖のない貧乏社会
第八章 悩みや四苦八苦のない貧乏社会
第九章 時間の概念がない貧乏社会
第十章 『今、ここ』だけにある貧乏社会


おわりに

わたしたち人間と自然社会の生きものの決定的な違いは一体何でしょうか?
チェックポイントは無数にありますが、結局の処、一つのことに集約されます。
それは、自然社会の生きものはすべて『今、ここ』を生きているのに対して、わたしたち人間だけが過去・現在・未来に想いを馳せて生きている違いです。
貧富の概念も結局の処、わたしたち人間だけが過去・現在・未来に想いを馳せて生きていることから生れたわけです。
わたしたち人間だけが悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのも、わたしたち人間だけが過去・現在・未来に想いを馳せて生きていることから生れたわけです。
わたしたち人間社会だけに、差別・不条理・戦争が蔓延したのも、わたしたち人間だけが過去・現在・未来に想いを馳せて生きていることから生れたわけです。
『今、ここ』を生きていれば、こういった問題は一切起こりません。
まさに、
貧乏で生きることこそが、『今、ここ』を生きる術に他なりません。
貧乏のすすめの意図は、『今、ここ』にあったわけです。
そして、
『今、ここ』を生きることを邪魔している張本人こそが「時間」の存在です。
そして、
「時間」を絶対的存在にしているのが、「光」を絶対的存在にしている宗教と科学なのです。
そのことを証明したくて、この作品を書いたのです。

平成22年2月10日   新 田  論