第四十五章 本当の別離

村木が泊まっている宮殿の部屋で、二人は抱き合ってしばらくは言葉も交わさなかった。
村木の腕の中で、エリザベスは何か話さなければと思っていたが、何から話していいのか分からなかった。
「別に無理に説明をしなくてもいいんですよ」
村木は優しく声をかけてやった。
そう言われれば余計村木の気持ちが気になって、話しをしないといけない、と思う彼女だった。
「わたしは、ジャミールさんから電話を頂いて、あなたがイランに来ておられると聞いて、ただそれだけでロンドンから、あなたに会いたい一心でイランに帰ったのです」
殊勝な気持ちで話しているエリザベスを見ていると、民族・人種によって考え方・価値観がまったく違うと言うが、心の通じ合った間では、やはり情と言うものが必ず出てくる。エリザベスがいま感じている想いというのは、日本流で言うなら村木に対する信義の気持ちだろう。
村木は充分理解していた。だから決して自分からは聞こうとはしなかった。
「あなたとの、あの夜は一生忘れない思い出として、胸に抱いてロンドンに帰るつもりでした。そして翌朝早く、あなたへの手紙を書いてホテルに届けてからテヘランに向かったのです。父がロンドン行きの便を手配していてくれ、そのまま飛行機に乗ったら、隣の席にスメイニ師が座っておられ、わたしが乗ることをご存知だったことを、初めて知ったのです。父がスメイニ師と連絡を取っていたのだと思います。
スメイニ師は父の友人で、イランでは重要な方です。わたしがロンドンにいるので、あの方がロンドンに来られると、身の回りのお世話をしていました。別に男女の関係ではありませんし、秘書というような正式なものでもなく、ただ父のお友達というだけの気持ちでしていたことです。
テヘラン空港を夜離陸して三時間ほど経った頃でしょうか、後ろの方で爆発音が聞こえて、数人のマスクを被った人たちがスメイニ師のところへやって来て、ハイジャックしたと言って、彼とわたしを二階の操縦席のところへ連れて行ったのです。そして大きな音がして、後は憶えていません。気がついたら、先ほどまでいたホテルの部屋に閉じ込められていたのです」
エリザベスの話しは、村木の推測していた通りだった。
「もうそれ以上、話さなくてもいいですよ。分かっていましたから」
村木の言葉を聞いて安心したのか、村木の胸の中に顔を埋めて黙っていた。
そして精神的に余程疲れていたのか、そのまま眠ってしまった。
エリザベスの眠った顔は、安堵と喜びの表情で微笑んでいるように見えた。
「目が醒めるまでは、このままにしておいてあげよう」と思った村木も、緊張の糸が切れたように眠ってしまった。
周囲の者も二人を気遣ってそっとしておいてくれた。
何時間経ったのだろうか、エリザベスが胸の中で囁く声で、村木は目を醒ました。
「父はどうしているでしょうか?」
アバスのことが気になったらしく、村木に尋ねたエリザベスはスメイニ師がどうなったかは聞かなかった。
頭のいい女性だから、状況判断が出来ていたのだ。
「スイスのツェルマットまで一緒だったんですが、ここからすぐに電話をして、あなたをテヘランにお連れするので、ジャミールと一緒にテヘランに戻るよう申しました」
黙って聞いていた彼女は、「わたしは、ここから独りでロンドンに戻ります。これ以上、あなたに迷惑をおかけする訳にはいきません。どうか解ってください」
涙を流しながら訴える彼女の気持ちを理解した村木は黙って頷いた。
翌日、マスカット空港まで一緒に行った村木は、スルタンの計らいで、飛行機のゲートまでエリザベスと一緒にいることが出来た。
アテネ行きの便が出発する直前まで、二人は黙って体を寄せ合ってロビーに座っていた。
アラビア語でBoardingのアナウンスがされると、二人は立って自然に抱き合って、最後の接吻をした。
彼女の頬に自分の涙と共に村木の涙が伝わっているのに気づいたエリザベスは感動して、ただ微笑むだけで、涙で濡れた村木の頬に口づけをした。
「本当にお別離です。愛しています。さようなら」と言って飛行機の中に消えていった。
その姿を見ていた例の二人の記者が、村木のところへやって来た。
「素晴らしい女性でございますね。わたしはカサブランカの最後のシーンを思い出しましたです。ええ」
村木は二人を見て、照れ笑いをした。
テヘランに立ち寄った村木は乾と上田を連れて、グラブチ家を訪問した。
クセインも心配していて、オーガスタに帰らずにテヘランにいたし、先にスイスから帰ったジャミールとエリザベスの父親アバス・タイラムも、村木に礼を言うためにテヘランで待っていてくれた。
エリザベスがロンドンに直接帰ったことをアバスに伝えたら、「今回の事件に、娘を巻き込んだ張本人がわたしですから、彼女もわたしに会いたくなかったのでしょう。申し訳ないことを娘にしたと後悔しています」
と神妙な表情で落ち込んでいた。
「正直言いまして、彼女にそういう気持ちが少なからずあることは確かだと思います。しかし、あなたを怨んでいるようなことはないと思います。ただスメイニ師とは今後関わりたくないと思っておられるでしょう。穏やかなロンドン生活を送りたいと思っているだけですよ」
アバスはスメイニ師のことも村木に聞くつもりだったが、村木の話しで聞くことが出来なかった。
「スメイニ師のことを気にしておられるでしょうが、正直申しまして今回の事件は根が深くて、彼女の救出を最優先する為に、事件には一切関わらない方針で臨みました。申し訳ありません」
村木の説明に、「何を、申し訳ないなどと。あなたのお陰で娘が無事に戻って来たのです。他の犠牲者の方に、どう言っていいのか」
アバスが言ったことで、エリザベスがテヘランに戻らずに、そのままそっとロンドンに帰った意図が解った。
「父親に対する思いよりも、他の犠牲者に対してどう説明をするのかを考えれば、エリザベスだけが生きていることは許されないのだ。彼女は死んだものと思って欲しいと言いたかったのだ。この俺にも」
村木は五年以上イラン生活をした経験がある。
正直言って、余り良い印象の国ではなかった。文化・宗教・風土の違いが余りにも日本と違い過ぎて比較にならないが、同じ人間として考えても、彼らの価値観に合わせることは出来ないと思っていた。
しかし、エリザベスとの間に生まれた心の絆は、民族、宗教、風土、価値観を超えたところにある、人間として共通する想いだった。
人を愛するということは、すべての障害を乗り越える力を持っていることに気づかされた想いの村木だった。
そう思ったら、急に日本に帰りたくなった。
「わたしは、日本という国に嫌気をさして出て来ましたが、急に日本が恋しくなりました。しばらく帰ります」
グラブチ家の人たちや、エリザベスの父親のアバスと別れるのは淋しかったが、日本にも淋しがっている人たちがいることを思い出した。
それから、まだ片付けなければならないこともあるし、今回の事件をCIAやFBIが放置する訳がないことを考えると、戦闘体制を整えなければならない。
その為には、一旦日本に帰った方が良いと思った。
「わたくしたちも、一緒に帰国いたします。ええ」
じっと神妙に聞いていた乾記者が、「待ってました」と、口を開いた。
「君たちは、ツェルマットに戻って、その後の事件の取材をしないとだめじゃないか!」ジャミ−ルが言ったが、村木は、彼らはもうこの事件において単なるジャーナリストの立場にはおれないと判断していた。
「いや、彼らも一緒に日本に帰って、新しいフォーメーションを構築する必要があるので、連れて帰ります」
それを聞いた二人は、お互いの顔を見てニヤッと笑った。
しかし、これから、どんなことが起こるのかを考えると、気が重くなる村木だったが、一匹狼が虎になった限り、どんな事態にも敢然と立ち向かう覚悟は出来ていた。

「狼が虎になった日」 −第一部終わり−